あの日、天使がこちらを見た。

桐原悠真

第1章 触れられない光

高校二年の秋だった。

友達に誘われて訪れた、お嬢様校の文化祭。


季節は紅葉の盛りで、校内の木々は静かに色を変えていた。

落ち葉を踏むたびに、

自分がここに属さないという事実が足元から立ち上がってくる。

油の匂いが染みついた工業高校の制服。

周囲には白いブラウスと、焦げ茶のスカート。

その対比が、どうしようもなく滑稽だった。


そんなときだった。


——天使が、こちらを見ていた。


光が差し込み、彼女の輪郭をやわらかく縁取っていた。

立っているだけで、空気が澄む。

その存在が、空間の質を変えていた。


凛とした瞳。

無駄のない所作。

こういう人間が、現実に存在するのだと、その時初めて知った。


目が合ったような気がした。

反射的に視線を逸らす。

胸の奥がざわめき、呼吸の仕方すら見失った。


俺は、そこそこモテた。

自惚れではなく、事実として。


それでも、自分の世界に

ああいう種類の“美”は一度もなかった。


隣で友達が淡々と言う。

「瑠璃さまって呼ばれてる人。

 美人で、頭も良くて、生徒会。

 本物のお嬢様よ。

 あんたが相手にされるはずないじゃん。」


言葉が、音もなく胸に沈んでいく。

刺すというより、静かに沈殿していく感じだった。


その沈殿に合わせるように、

視界がじわりと暗くなっていく。


俺は何を持っている?

顔か。——せいぜい、それだけだ。


中身は空っぽだ。

学力も、家も、将来も、何もない。

ひとり親の現実が、形のない重さとなって背中にのしかかる。


工業高校という輪郭が、ゆっくりと俺を締めつけた。


「よろしかったらどうぞ。」


彼女が差し出したパンフレットは、

紙とは思えないほど軽かった。


指先が一瞬触れた気がして、

それだけで、息が止まった。


「……ありがとうございます。」


声は、情けないほど掠れていた。

それを恥じた瞬間、彼女がふっと微笑んだ。


その笑顔を受け取ったとたん、

周囲の音がすべて遠ざかっていった。


世界の色さえ薄れた。


天使だ。


そう思った。

それ以外の言葉を、俺は持ち合わせていなかった。


俺は、その日、文化祭のことをほとんど覚えていない。

何を見て、どこを歩いたのかさえ曖昧だ。


ただ、あの光景だけが、焼きついたままだった。


——天使。


家に帰って、俺は自分の滑稽さに呆れた。

こんな俺が、好きになっていいわけがないだろうと。

何一つ持っていない俺が、あの人の隣に立てるはずがない。


無理だ。

わかっている。


俺には何もない。

顔以外。


正直に言えば、母にはずっと感謝している。

この顔に産んでくれたこと。

それでどれだけ得をしてきたか、嫌でも知っていた。

女に困ったことはない。

それを“最高だ”と笑っていた時期もあった。


母はやさしい。

愛してくれた。

ひとり親で苦しさもあったはずなのに、

俺にそれを悟らせなかった。


十分すぎるほど、愛情をもらって育った。


それでも——


無能。


その二文字が、頭の奥で何度も反響していた。


優しさも、顔の良さも、

あの“美”の前ではすべて空っぽに思えた。


何も足りない。

何も届かない。


そう気づいてしまった日の夜は、

妙に長かった。


パンフレットを見ていた。

開いては閉じ、開いては閉じ……それを何度繰り返したのか、自分でもわからない。


瑠璃さま。


その名前を、そっとノートに写した。


 瑠璃。


名前まで、美しかった。

瑠璃色の、透明で、どこか冷たい響き。

触れられない光のような質感をしている。


ああいう人間が、この世に存在するのか。

思い返すたびに、胸の内側がきゅっとひきつった。


美しかった。

ただ、それだけだ。


俺の顔なんて、全然及ばない。

“自分は顔だけ”と、どこかで慢心していたのが恥ずかしくなるほど、

彼女の美は、なにか次元の違う鋭さを持っていた。


あの洗練を前にすると、

自分の“自信”なんて、まるで安っぽい飾りに見えた。


「母さん…俺ってさ……何かあるかな。才能とか。」


夕飯の匂いが漂う台所で、ぽつりと口にした。

母は振り返り、少しだけ首を傾げた。


「そんなもの、経験して、何か感じればいいんじゃない?

 今わからなくても、いつかわかるわよ。

 それに、別に綾斗はできない子じゃないでしょ。やればできるわ。」


そう言って、母は笑った。

温度のある、やさしい笑い方だった。


けれど、そのやさしさが、逆に胸に重く響いた。


「女の子にでも振られたの?」


「振られてないから。」


声が、少しだけ固くなった。

否定したけれど、

“届かない”という事実は、振られるより痛いことを知っていた。


翌日、俺は学校に行った。


昇降口の油の匂い、

床に散らばる切削くず、

壁に貼られた色あせたポスター。


——ああ、ここが俺の居場所だ。


そう思った瞬間、

胸のあたりがじわりと沈んだ。


昨日までは気にも留めなかったはずなのに、

“掃き溜め”のように感じた。

あそこ——お嬢様校とは、

あまりにも世界が違う。


「おい、綾斗。女釣れたか?行ったんだろ?」


「いや、収穫なし。」


「珍しいな。まあ、お嬢様だしな。俺らとは違うよ。」


「だよな。」


「俺もワンチャン狙いたいよ。お前くらいイケメンだったら行くけどな。」


「いや、全然……無理だったわ。

 ああいう子って、どういうやつと付き合うんだ?」


「そりゃ、お坊ちゃんじゃねーの?

 それか頭いいやつ。いるじゃん、何でもできそうな優等生。」


「なるほど。」


「え?狙ってるの?

 お前、頭良かった?」


「いや、悪い。無理だな。」


「勉強でもしたらー。」

と笑われた。


その笑い声が、いつもよりずっと遠く聞こえた。

まるで別の世界の音みたいに。


俺は笑い返したけれど、

胸の奥に、重たいものが沈んでいった。



授業中、ノートに

瑠璃

と書いていた。


馬鹿じゃん?

俺。

無理だろ……。


頭から離れない。

のしかかる現実。


頭が良かったら、違うのか。

大学へ行けば、違うのか。


いやいや、俺んちひとり親だ。

金なんて、ない。

無理だ。


無理だから——。


放課後、帰り道でふと本屋に寄った。

“勉強”って、何からすればいいんだろうと、

そんな曖昧な衝動に突き動かされて。


そこで、彼女がいた。


参考書コーナー。

背筋を伸ばし、淡い光に包まれるような姿。


やっぱり——美女だ。

瑠璃さま。

天使。


空気が違う。

まるで、別の濃度の世界の住人。


俺は棚の陰から、

彼女が手に取った参考書をそっと見ていた。


——こういうのを勉強するのか。


進学校でもない俺には、

どこから手をつければいいのかすらわからない。


「どれがいいんだろう……わかんねー。」


思わずつぶやいた声が、空気に溶けた。


瑠璃さまが、ゆっくりとこちらを向いた。

「お困りですか?

 参考書、探していらっしゃるの?」


「はい。あの……全然わからなくて」


「英語?数学?それとも現代文?どちらを?」


「えっと、全部」


自分でも驚くくらい情けない声が出た。

顔が熱くなった。

本当に、場違いだ。


「数学なら、ⅠAかしら?それともⅡB?ⅢC?」


「えっと……最初のやつ。」


「ⅠAね。

 これが私はわかりやすかったわ。

 それと、これが基礎固めに良かったですよ。」


彼女の指先が示すたび、紙の表面に淡い光が走ったように見えた。


「英語は、この単語帳が好きで使っているの。

 それと、これもおすすめ。」


「ありがとうございます。」


「いえ。お役に立てたなら。」


そう言って、彼女は軽やかに歩き去っていった。

空気が静かに戻る。


俺は、持っているだけの金をかき集めて参考書を買った。

何とか足りた。


彼女が触れた参考書と問題集は、

本当に光が差しているように見えた。


握った手が、震えていた。


少しだけ近づいたのか……

俺はそう思いながら、ゆっくりと帰り道を歩いた。


——綾斗、無駄な努力だ。


胸の奥で、もうひとりの自分が囁いた。

参考書を握る手が、じわりと震えた。


彼女が触れた参考書は、

光に満ちていた。


その光が、残酷だった。

現実の距離を、否応なく突きつけてきた。


甘くない。

そんなことは、わかっていた。


家に帰って、机に広げてみた。


ⅠAってなんだよ。

どこから読めばいいんだよ。

最初のページから、もうわからなかった。


「珍しいじゃない、勉強なんてしてるの?」


振り返ると、母が立っていた。


「ちょっとだけな。」


「数学ⅠAね。懐かしいわー。」


「え、わかるの?」


「当たり前でしょ。私、こう見えても国立よ?」


「あ……そうだった……。」


母さんは頭が良かった。

エリート家庭の出身だ。

ひとり親になってからは、そんなこと一度も言わなかったけれど。


俺は気づいた。


——エリート家庭育ちの人なら、

 この家に“ひとり”いた。


たしかに、ここにいた。


なのに、

俺は母の背中を、ちゃんと見たことがなかった。


そのことに気づいた瞬間、

胸の奥が、別の意味でざわついた。


「少しくらいなら教えてあげるわ。」


母は椅子を引き寄せ、俺の隣に腰を下ろした。

鉛筆を手に取り、数式をなぞる。


「ここに、この数字を代入するのよ。」


「……全く分かんないんだけど。」


「やったことないんだから仕方ないでしょ。

 勉強してこなかったんだから。

 甘えないで、手を動かしなさい。」


淡々とした口調だった。

叱っているわけでも、慰めるわけでもない。

ただ事実を言っているだけの声。


「綾斗、大学行きたいの?」


「少しだけ……行ってみたい気もするけど。無理だよ。

 わかんないし、金ないでしょ。働くって……わかってるって。」


「大学くらい行けるわよ? 誰でも。」


「そんなバカな。うち金ないだろ。」


「何言ってるの。私が払うなんて、一言も言ってないわよ。」


「え?」


「奨学金とか、授業料免除とか、制度はいくらでもあるの。

 だから、心配しなくていいのよ。

 使えるものは全部使えばいいだけ。」


ああ、そうだ。

うちはずっとそうだった。

“使えるものはフル活用”——それが母のモットー。

ひとり親で金がなくても、必要なものは必ず手に入れてきた。


思えば俺は、公民館の活動も、地域の講座も、図書館のイベントも、

全部“フル活用”して育ってきた。

庶民なりの経験は山ほどしていた。

それでも、瑠璃さまとは違うけれど。


「俺……大学、受けられるかな。

 母さんと同じところ、目指そうかな。」


「行けるんじゃない? 工学部でいいの?」


「何があるか知らんし。

 工業高校だから工学部……でいいんじゃないか? 知らんけど。」


母は少し笑った。

その笑いが不思議と胸に残った。


そして——

俺は母と同じ大学を目指すことにした。

とりあえず、そこから始めてみようと思った。


「父さんと別れなかったら、母さん、楽だったんじゃない?」


ふと口から出た言葉に、自分でも驚いた。

母は皿を拭きながら、ためらいなく言った。


「あんな不倫男、いらんでしょう。」


「確かに……いらんな。」


「綾斗、あんたも結婚したら不倫なんかするんじゃないわよ。

 それだけは母さん、本気で怒るからね。」


「はーい。」


その軽い返事に、母は小さく笑った。


「そうよ。でもね、あの人と離婚できて、私は幸せなのよ。

 自由だしね。最高よ。」


その“最高よ”が、妙に胸に残った。


「色んなもののつり合いが取れてても、合わないってこともあるのよ。

 まあ、合わなかった。それだけ。

 無理する必要なんてどこにもないの。」


母はそう言いながら、茶碗を丁寧に伏せていった。


「ただね、本当に好きになったら——

 そのときは、なりふり構わず行くべきだと思う。」


その言葉だけ、少し声音が変わった。

芯のある、やわらかい強さ。

どこか痛みの影を引きずっているようにも思えた。


俺は返事をしなかった。

できなかった。


胸の奥で、瑠璃さまの笑顔がぼんやり浮かんだ。


なりふり構わず——

俺がそれをしていいのだろうか。


いや、してはいけないのだろう。


だけど。


母の言葉が、なぜか抜けなくなった。


父さんは、不倫した。

けれど——ものすごく好きだったのだと思う。

母ではない誰かを。


だから、母と俺とは暮らさなかった。


離婚の日、

俺はドア越しに、二人の最後の会話を聞いていた。


「本当に好きなら、なりふり構わず行くべきだわ。

 応援するわよ。でも、養育費は別だから、しっかりちょうだいね。」


母の声は、不思議なくらい澄んでいた。


「わかった。ありがとう。」


父の声も、どこか安堵していた。


それだけで、夫婦は終わった。


母は今でも父のことを「不倫男」だと笑う。

冗談みたいに軽く言うけれど、

本気で怒っているわけではない。


多分——

母は父の気持ちを分かっていたんだろう。

好きだったから、応援したんだろう。


母は、そういう人だ。


誰かが本当に好きなものに向かう姿を、

笑いながら背中を押してしまう人。


その代わり、必要な条件だけは淡々と突きつける。


愛情と現実の線引きが、

たった一言でできてしまう人。


俺はその背中を見て育った。

ずっと無自覚だったけれど。


俺はその日から、勉強を始めた。

母の監視——というより、後ろから静かに刺さる視線のおかげで。


「綾斗、やらないと自分に負けるわよ。

 一生“ダメだった”って思う。だから、やりなさい。

 でも嫌なら、やめてもいい。」


言いながら、母は淡々と洗濯物を畳んでいた。

その落ち着いた横顔に、なぜか逆らえなかった。


「金がないから塾はなし。

 それに、私が教えたほうがマシだと思うわ。

 これくらい余裕よ。

 これでも頭だけは良かったんだから。」


誇らしげでもなく、謙遜でもなく、ただ事実として言う声。


「学校の授業なんて無視してもいいから、

 ここからここまでの英単語、覚えてきなさい。」


「マジかよ……親が言うこと?」


「合格したいなら、効率よくやるのよ。

 学校の授業料払ってる分は、しっかり取り返してきなさい。」


母の論理はいつも完璧だった。

容赦ないのに、その奥にある“愛情の厚さ”だけはわかる。


「了解。」


そう答えたけれど、胸の奥はまだざわついていた。


なぜ俺は今、こんな必死に英単語を覚えようとしているんだ?


理由は……わかっている。

あの天使だ。

瑠璃さま。

彼女の世界に、少しでも触れたくなってしまった。


そんな自分が、少しだけ苦しかった。


「綾斗、お前なんで勉強してんの?」


休み時間、机に参考書を広げていた俺に、

クラスメイトが呆れたように言った。


「母さんが、スパルタなんだよ。」


「え?」


「単語覚えないと、飯食えないし……。」


「なんだそれ?」


「マジなんだよ……うちの母さん……。」


ごめん、母さん。

適当に言った。

いや、本当だけど。


クラスの笑い声が遠くで弾けた。

いつもは一緒に笑っていたのに、

今日はどこか置いていかれた気がした。


参考書を閉じながら、

胸の内側にそっと呟く。


——瑠璃さまのためだ。


それしかないんだけどな。


クラスの軽口も、

母のスパルタも、

俺の不器用な虚勢も、

全部ひとつの理由に繋がっていた。


誰にも言えない。

言えるはずもない。


名前を呼ぶことすら叶わない人のために、

俺は単語を覚えている。


それが、妙に苦しくて。

でも同時に、

生きている実感のようなものでもあった。


ああ、誰にも言えない。

言えば壊れてしまう。


だから、胸の奥でそっと、

名前を呼んだ。

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