第28話 自分はただ、自分の母親を愛したかった。

ハードボイルド・セブン

エピソード4.春風

第28話




石原は、むかつくタバコの臭いと一緒に戻ってきた。


「先輩は?」

「トイレに寄ってくるんたって。」

「ああ。」


そして、しばらく沈黙が続くかと思ったが、石原が突然話をかけた。


「探偵なら人探しもできるよね?」

「え?あ、まあ。」


探偵だと嘘ついていた。日光は平然と肯定しながらうなずいた。石原は長い髪を掻き上げ、唇をぐちゃぐちゃと噛みついた。脱色して金色に輝いている髪とは対照的に、顔色は影のように暗かった。日光は石原が頼もうとしていることが分かった。2年前に行方不明になった弟、石原拓也を探してほしいと言うのだろう。日光はそっとズボンのポケットに手を入れ、ひまわりに電話をかけた。


「拓也という弟がいて、2年前から行方不明になっている。その前はギャンブルの問題でで借金をして苦労していたので、俺と母親が少し助けていた。」

「そうですか。」


助けは長くは続かなかっただろう。


「それでも癖が直らなくて家全体が破産してしまった。父親はショックで倒れて亡くなり、親戚からも連絡が途絶え、家も売って、店だけは守ったが、そこまでだった。借金が苦労している母親に移らないように、二人を法的に縁切りして、その後は俺一人で何とかしようとしたが、拓也の状態はますます悪化し、悪いことに手を染めるようになった。結局、俺も絶縁するしかなかった。」


一言一句、悲劇が続いた。タバコを吸いながら、先輩にも既にした話なのか?探偵ではないことがバレていないようみたいで、そうじゃないかも知れない。いずれにせよ、先輩なら宇代の子供たちであるこの兄弟を手伝だってと言うだろうが、そうしたらいいのか?


「ごめん。聞くに堪えない話が余計に長くなってしまった。それでも、日光さんが探偵だから、日光さんだけにする話し。明さんみたいな気が弱い人にこんなことを話すのは、どうしても躊躇ってしまって。」

「そうですね。先輩には言わないでください。」


石原は頷いて話を続けた。


「母親は、こんなことをされるような恨みを抱えるような状態ではない。ただ、一日一日しか覚えられないアルツハイマー病の患者だよ。不審者に襲われた母親をこの病院に運んだ男が拓也の人着と一致していたので、警察にも話しておいたけど……。」

「俺も個人的に手伝って欲しいということですね。そうします。」

「ありがとう、日光さん。実は、あの若い男が拓也かどうかは俺もよく分からない。拓也がまだ生きているかどうかさえ確かでない状態だから。でも、母親がこんなことになったのは、間違いなく拓也の借金と関係があるはずだよ。そうしかない。」


日光はポケットの中で指を動かして電話を切った。これからはひまわりが調べてくれるはずだ。そんなことよりも今はこんなことを気にする時ではない。慣れている足音が近づいてきた。日光は両手で石原の震える手を強く握りしめ、大声で約束した。


「石原さんは俺が尊敬する赤見先輩の大切な知り合いだから、俺が必ず石原さんの心配を軽くします。」


廊下が一瞬静まり返った。最初から微細に振動していた廊下の白い照明が突然数回大きく点滅し、パッと明るい光を放って元の明るさに戻った。そのおかげか、石原の青ざめていた顔も少し派手に見えて、廊下もなぜか何だか広くなったような錯覚を覚えた。石原の手が日光の手を力強く握り返した。殺し屋の日光ほどではないが、荒れた手だった。おそらくこの手は主人と共に辛いことを色々乗り越えてきたのだろう。残念なことだ。


残念?俺がなぜ?


「日光さんは本当に良い人だ。あんなに内気な明さんが唯一親しくしている理由が分かった。」


日光は正気を取り戻した。


「特にそうではありません。俺が先輩を一方的に追い回すだけです。俺はただ先輩と石原さんの力になりたいです。宇代さんは必ず回復されるから、宇代さんとまたお会いするまで、お二人は健康でいなければならない義務があるんです。」


日光は、この廊下につながる角の向こうで自分の声を聞いているはずの赤見を意識しながら、自分でも信じられない嘘を作り出した。だから、ここに純粋な目をした人などいない。


宇代が手術室に移された後、数時間も深刻な表情で不安そうだった石原は、日光の話を聞いてようやく微笑んだ。


「うん。そうだね。本当にありがとう。」


日光もにっこり微笑みながら手を緩めた。石原の方へ傾けていた体を再び元の位置に固定するふりをしながら振り返った先には、予想通り赤見が立っていた。赤見は特に何も言わずに静かに近づいてきて、日光の隣に座った。日光は軽い口調で話しかけた。


「先輩、さっき興奮してごめんなさい。宇代さんが心配で、緊張したせいで俺の頭がどうなっていたみたいです。」


日光をちらりと眺める赤見の黒い目には、微妙な拒絶感が漂っていた。肝を冷やした。日光は今この瞬間をうまく乗り越えなければならなかった。すでに7月に一度、先輩に自分の本心をぶつけて距離を置かれたことがあった。気の弱い先輩の前で人を切り刻んだこともあった。愚かな日光正義。与えられた幸運を自分の足で蹴り捨てるイカレ野郎。ただタバコを吸ったという理由で先輩に暴言を吐いた。先輩は一体何回までそんな甘えを受け入れてくれるのか?分からない。今、先輩が俺を捨てると言ったら、俺の人生はここで本当に終わってしまう。絶対に本当の自分を露呈せず、最高の後輩を演じしなければならない。


捨てられたくない。先輩から離れたくも、別れたくもない。俺は先輩と一緒に扉のない場所に閉じ込められたいです。しかし、先輩の吐息から流れ出すタバコの臭いがからかった。好きなことと嫌なことの境界が乱れ、歪む感じは不思議なことに悲しかった。先輩、俺、背中が熱いです。その上の蝶はきっと痛いでしょう。けれど、他の蝶がいれば、痛い蝶も幸せになれるらしいです。だから、もう一匹の蝶は先輩であってほしい。いや、先輩でなければダメです。


でも、実は俺は痛い蝶でも大丈夫です。ただ、このまま俺が痛いままでいさせてください。先輩のそばでずっと、痛いままでいられる機会をください。


「お前がタバコをそんなに嫌いなんて知らなかった。」

「別に嫌いじゃないですよ。」

「私がはっきりと嘘は嫌いだって言ったはずだけど。」


完璧な微笑みを浮かべていた日光の口角がピクッとねじって痙攣を起こした。赤見は理解できなかった。日光は赤見に自分を透明に見せているようだったが、本当に重要なことは何も外に出さなかった。探り出そうとしたら全てを、いつでも、いくらでも掘り出すことができる。赤見は催眠術師だから。しかし、そんな方法で近づきたくない人たちがいた。宇代さんと石原。つまり、春風の中の客たち。聖域の中の人たち。不器用でも、難しくても、自分がろくでなしで情けない社会不適合者に見えても、真心に向き合おうとした人たち。


日光は最初からその聖域の外にいた。日光はすでに赤見の催眠術に汚染されていた。それが赤見の過ちだ。罪だ。だけど、その過ち、その罪がなければ、赤見は日光の足先にも届かなかっただろう。


先輩を守りたいです。俺が望むのはそれだけです。


俺はそれが誇らしいです。今の自分が気に入っています。他の人の判断や評価みたいなのはいらない。そんなものはお断りです。


先輩!水平線を見てください!こんなに広々とした場所は久しぶりですね!先輩もそうでしょう?わあ、広すぎて、俺が消えてしまいそうですよ!


ただ先輩が、催眠術にかかっていない俺であっても、尊敬できる先輩でいてくれませんか?


日光が殺し屋でなかったら。私を殺そうとしていなかったら。催眠術にかかったのではなく、本気に私についてきてくれるならよかったのに。留置場で見た夢の中の幼い自分が言った言葉が、心の中を目まぐるしいく回っていた。日光はもう殺し屋を辞めることになったんじゃないか?私のガードになると言ったじゃないか。唯一残った足かせは、日光が赤見の催眠術にかかっているという事実だけだ。


「先輩。」


日光は微笑みを消し、心配そうな顔で自分を見ていた。その顔は余りにも本気みたいで、ただ信じてしまいたくなる。日光を信じて、安らかな嘘の中でバカみたいに楽しく過ごしたくなる。


「お前が嫌ならタバコを辞める。」


日光の顔が妙に固まった。落ちて粉々になりかけた陶器が床に当たる直前で止まった状態に留まっているような緊張感が漂った。


「日光?」


日光は返事もせず、急に立ち上がり、角を曲がって消えた。赤見は日光が崩れる場所を探して去ったことを知っていた。つまり、安心して泣ける場所を探しに。日光は意外に涙もろかった。意味のない冗談を飛ばして笑ったり、能力に裏打ちされた自信をいばったり、世間のことに関心なさそうなふりをしたりしても、奥に溜まったのが何かたくさんあって、赤見がそれを少し触れるだけで、すぐに目元が真っ赤になる奴だった。そんな奴が、どんな気持ちで人々を殺してきたのだろう。どうして他人の苦痛や死に鈍りにけむることになってしまったのだろう。もう少し早く日光に出会っていたら、日光も自分も、 何か変わることができただろうか。


催眠術以外は大したことない自分とは違って日光は才能に溢れていた。何にでもなれる奴だった。例えば、料理人だったり、通訳士だったり、スポーツ選手だったり、何でもいいから、誰も傷つけないもので。背も高く、カッコいいから、モデルや俳優になってもよかっただろう。声も素敵だから、声優も悪くないだろう。日光がシャワーを浴びている時、口ずさむ歌声を聞いたことがあった。赤見は風呂場の隣の壁に寄りかかって静かにその歌を聴いていた。『季節を越えてまた出逢えたら、君の名前を呼んでもいいかな?その頃にはきっと、春風が吹くだろう』。知らない歌手の知らない歌だった。赤見は歌なら演歌しか聴かなかった。赤見は日光が有名な歌手になって、皆の称賛を受ける存在として浮上する場面を簡単に想像できた。元殺し屋よりはそのほうがむしろ現実のようだった。


そうすれば、日光と出会うことはなかっただろう。日光が渋谷の横断歩道を渡って、やっと自分にぶつかって、人生を担保に入れるようなことはなかっただろう。


「お二人、普通の先輩後輩の関係じゃないよね?」


石原が尋ねた。


「実は催眠術師と殺し屋の関係です。」

「何それ。」


石原は当然笑いを爆発させた。しかし、すぐに手術室から医師たちと看護師たちが現れ、宇代さんは現れなかったため、その笑いは涙に変わった。赤見は崩れ落ちる石原を支えながら、床に一緒に倒れた。


もう二度と半分くらい白髪交じりの髪を束ねた中年の女性が、春風の厨房の扉を開けて出てきて、赤見に痩せすぎだと面と向かって責めながらも、赤見のテーブルに赤見が注文したこともないパンと菓子を次から次へと並べる姿を見ることができない。彼女が赤見がプレゼントしたという事実自体を一日で忘れてしまったが、毎日着用する花模様のエプロンに水で濡れた手を拭く姿を見ることができない。人手不足のたびに手伝いに行っても、こんなやせ細った青年になにを任せられるのかと送る疑いの目を見ることができない。特に甘いものが好きだった彼女の方法で作った歯が痛くなるほど甘いカフェラテを楽しく味わうこともできない。それら全てと、こんな突然別れろと?


しかし赤見は宇代さんにとって何者でもなかった。だから泣き叫ぶ石原を嫉妬し、そしてその嫉妬する自分を恐ろしく思い、胃がむかむかすることを我慢を続けた後、気を失ってしまった。


数時間後、法的に宇代さんには家族がいなかったため、葬儀は病院で迅速に執り行われた。石原と赤見と日光が順番に黙祷を捧げた。信じられないくらい軽い葬儀だった。


三人が病院を出る頃には日が沈んでいた。長い一日だった。病院の入り口で別れる直前に、赤見は石原に、敢えて自分が宇代さんの遺品となった花模様のエプロンを持って行っても良いかと尋ねた。石原は返事の代わりに赤見の首を強く抱きしめた。石原は涙がいっぱいついている声で、母親を愛してくれてありがとうと言った。明さんみたいな良い人の愛を受けて、母親は覚えていなくても毎日幸せだったはずだと言った。赤見はぼんやりと抱きしめられた。そのときになって、自分が宇代さんを愛したことが一度もなかったという惨たらしい真実と向き合ったのだ。


自分はただ、自分の母親を愛したかった。

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