第27話 新しさ、変化、復活、自由、魂。
ハードボイルド・セブン
エピソード4.春風
第27話
一人で静かな廊下にしつらえられた待合席に座った日光は、タバコを吸う赤見を想像してみた。
安っぽいプラスチックのライターを先端に当てた名前の分からないタバコのフィルターを、角質が浮いてきたひりひり痛い唇で少し吸い込んで火を付けると、タバコからも唇からも白くてからい煙が院長室の天井まで霞んだ。爪が短くて細い毛で覆われた粗野な手がタバコを揺らした。院長が後ろを向いてTシャツを上げろと命じたため、正義は後ろを向いてTシャツを上げた。ヘリにカビが生えた古い扉が見えた。あそこへ駆け出せば、自分の好きなように生きられる。そんな考えは愚かだった。あの扉の向こうには、苦痛よりも深い絶望が待っていた。優しく微笑みながら自分の話を聞いてくれた警察の手で捕まえられ、ここに戻ってきた時、正義は世界中の誰一人も自分が感じていることに何も関心がないというひやりとした現実に到達した。
再びカビの臭いとタバコの臭いが混じった部屋に閉じ込められた瞬間、正義は自分自身を自分自身の中に閉じ込めた。今後は、何一つもこの中に入れらせない。二度とどんな苦痛も絶望も中に入れらせない。それは意識レベルで成り立った誓いではなかった。反射的に防御機制が作用した結果だった。自分自身の中に閉じ込められた正義は、逆に自分自身から分離された。まるで自分の体の中に宿る魂ではなく、他人の体に乗り込んだ操縦士のように、正義にとって日光正義という存在は、自分自身であり他人だった。
そのため、この時には視界がぼやけていた。時間は着実に流れていくのに、出会う顔たちは生地のように混ざり合ったり、離れたりして周りを煩わしく漂っていた。『正義君!聞いてる?』正義は聞いていなかった。正義は日光や風をほとんど感じられなかった。雨の日の濡れたアスファルトの懐かしい匂いや、祭りの準備で賑わう街はもちろん、甚だしいは今まで正義を苦しめてきた苦痛や絶望さえも感じられなかった。ただ、繰り返される院長の声だけがはっきりと刻み込まれていた。
こんなに可愛いのに、なぜお前の親はお前を捨てたのか。それは俺に使われるためだ。正義、お前が俺のものだという証拠を残してやる。一生忘れないようにしてやる。
だからこの想像は想像ではなかった。記憶だった。
日光は目を閉じて息を吸い込んだ。病院の廊下に漂う薬品の酸っぱい臭いと、室内の空気のぬるい温度を感じようと必死になった。握りしめていた拳を緩め、隣の席に下ろすと、古びた人工皮革の滑らかな触感が、汗で湿った手のひらを包み込んだ。
俺は今、現在にいる。
完全に新しく想像しなければならない。握手した先輩の細くて、痩せていて、柔らかい手に持たれたマイセンというタバコを思い出してみよう。楕円形のきれいな爪がタバコの真ん中を軽く叩いた。灰は小さな石のように落ちるはずだ。それらは小さくてもとても熱い。熱い。日光は思わずどすんと椅子に背中を打ち付けた。全身の皮膚に鳥肌が立った。今までも頬の上に院長の手に生えた細い毛が通り過ぎながら残る痛みが感じられるようだった。冷や汗が首筋を沿って流れ落ちた。
痛いの、全部、飛んで行けって言ったのに。
失敗だ。日光は先輩がタバコをしとやかに灰皿に押しつぶすようなのを想像できなかった。日光は灰皿という物体を思い出せなかった。
「修羅さんはフリーランスのヤクザみたいなものですか?」
殺し屋としてのキャリアを始めたばかりの頃の日光に、ある客が尋ねた。フリーランスのヤクザという単語の組み合わせの滑稽さを指摘するよりは、人を殺すのに何と呼ばれるかが重要なのかと答えた記憶があった。
「ヤクザなら入れ墨みとかをやってあげようとしました。よく似合うと思いますけど?」
埼玉県に住んでいたその女性は、収入の少ないタトゥーアーティストで、自分の友人を殺害した男を殺してほしいと依頼する代わりに、手持ちの財産の全部である12万4千円とともにタトゥーを生涯無料で提供するとした。金額があまりにもたりない提案だったし、日光はタトゥーには全く興味がなかったが、それがその時のその女性が払える最善のことなのは分かっていた。女性の部屋は狭く汚かった。日光はお金はいいから、タトゥーを一度受ける代わりに依頼を引き受けると言った。異例の条件だった。
女性は一度だけなら、とんでもなく素晴らしいものを描いてやると豪語した。友人が死んだのに、殺し屋に対して怯まないその姿が新鮮に映ったのかもしれない。
「なぜ直接に復讐しないんだ?お前くらいの度胸ならできるそうだけど。」
日光が尋ねた。女性は日光のスーツジャケットを脱がせながら首を振った。
「友達にも、修羅さんにも申し訳ないけど、私があの野郎を殺したら、ちゃんと殺せないかもしれないし、ちゃんと殺したとしても、絶対にバレますよ。私は刑務所に行きたくない。もっと自由に、長生きしたい。」
自由に。
その言葉を反芻しながら、日光はシャツのボタンを外し、半裸になって女性のベッドの上にうつ伏せになった。このように無防備に他人に背中を見せるのは幼い頃以来に初めてだったが、なぜか心が落ち着いていた。
「うわっ、これ、まさか銃創ですか?」
女性は日光の背中のどこかを指で突いて尋ねた。配慮のかけらもない手触りに、逆に笑いがこみ上げた。
「いや、違う。」
日光は唾を吐くように短く答えた。
「根性焼きの跡だよ。それを隠せるように適当に描いてくれればいいんだけど。」
女性の表情は見えなかったが、大体予想がついた。突然、ガサガサと騒がしい音を立てながら作業に必要な道具を点検していた女性が、ファイル一つを日光の前に差し出した。タトゥーのデザインをまとめたファイルだった。日光はファイルのページをめくった。デザインと称する絵は、タトゥーに無知な日光が見ても、どれもどこか不器用で雑だった。女性がタトゥーアーティストとしてそれほど良い収入を得られていないのも理解できた。
「ひどいな。入れ墨は最初から無理だっただろう。」
女性は怒ったようだったが、どうやら殺し屋と戦う気はないようなのか、小さな声で文句を言った。
「仕方ないでしょう。お金がなくて、高校の美術の時間以来、一度も習ったことがないんですよ。」
日光は首を振った。
「学ぶかどうかの問題じゃない。単純に目で見ること以上に、ありのままを観察し、その全てを正確な位置にちゃんと描こうとすれば、誰だってこれより上手く描ける。お前は自分が目にする何ものも最後まで細かく分析したことがなく、その上、それさえも見える部分ですら一部を怠けて省略してしまったんだ。」
女性はしばらく黙った後、狭いシングルベッドの上に横たわっていた日光の隣に一緒にうつ伏せになった。
「絵は好きですか?」
「いや。」
半袖のTシャツを着た女性の冷たく柔らかい生地のような腕が肋骨に当たる感触がなかなか良かった。
「描いたことはありますか?」
「ある。」
女性は首を傾け、日光を見つめた。この女性はすぐにキスをしようとするつもりだ。近くでよく見ると、小さな目と低い鼻、ふっくらとした唇が平凡に可愛らしい女性だった。悪くなかった。
時々、日光に理想のタイプを聞く女性たちもいた。
「理想のタイプなんてないでしょ。」
この女性は正確に逆の質問をしたのだが。
「なぜそう思う?」
「絵自体は好きじゃないけど、形を全く同じく写すことにこだわるのが好みのないタイプみたいから。何かを本当に好きになったことはありますか?」
「実はない。お前の言う通りだ。」
日光は質問を受けるたびに、質問した相手が納得するような答えを適当に返してきた。無難で常識的なものはいい。そんな答えには誰も特に文句を言わないという長所があった。
日光は慣れたようにキスを受け入れた。特に断る理由もなかったからだ。少し火がついた日光が、きちんと緊張と弛緩の流にうまく乗る前に、女性が日光の肩を押し出した。最初から次の段階まで進むつもりはなかったようだ。なぜか興ざめてしまった日光を置き去りにし、一人でガッツポーズを取った女性が決意を固めた。
「いいですよ。私がこの傷跡、ちゃんと隠してあげます。」
「さあ、お前のひどいデザインを見ると、この取引は考え直すよ。タトゥーはいいから、ちゃんと金を貯めて来い。」
女性は日光の脛を蹴った。少しも痛くなかったので、日光はただじっとしていた。
「選んで。何を描きましょうか?」
日光はため息をつき、再びファイルを取り出してページをパラパラとめくった。絵の腕前はともかく、何一つ気に入るものがなかった。まあ、いつも通り適当に何か選べばいいかとも思った。日光にとって選択というのは難しい行為だった。どれ一つが他のものより特別であるほど、たやすくなる原理だから当然だ。どうでもいいんじゃない?こんな考えをする土地では、当然に好みというものを育むのは難しかった。
「何が良くてこんなものを肌に刻むなんて。訳を分からないな。」
「受け取ろうした人としては根本から否定する態度ですね。まあ、理由は人それぞれです。ただ美しく飾りたい人もいるし、何かを記憶したい人もいますよ。」
「記憶したくない。忘れたい。」
日光はそう言って目を細めた。緊張が解けたのか、あまりにも正直に答えてしまった。女性は横たわったところから半分起き上がり、日光の背中を再び見た。
「忘れさせてあげましょうか。」
「どうやって?」
「痛いの、痛いの、飛んでけ、そうさせるんです。」
「何だ、それ。」
女性は日光からファイルを奪い、一ページを開いた。
「蝶ね。」
「蝶です。」
「蝶が、何。」
「蝶は、新しさ、変化、復活、自由、魂を象徴するんです。ぴったりじゃないですか?修羅さんのここに。」
女性が日光の肩甲骨の近くの傷を再び指で触れた。今回は優しく撫でるような手が続いた。性的なニュアンスが感じられ無くてむしろ変な気分になった。
「新しさ、変化、復活、自由、魂。」
日光は蝶を選んだ。女性の言葉にあるほど説得されたのだ。ただしデザインは自分で描くことにした。女性が描いた水準に満たないデザインを体に刻みたくはなかった。女性はかなり自尊心が傷ついたようだったが、日光が女性が描いたデザインを応用して、その隣に新しく描いた蝶を見てからは認めざるを得なかった。
日光が描いた蝶は精巧で美しかった。すぐにでも春風に乗って空に舞い上がるような、生き生きとしていた。
「わあ、本物の蝶よりずっと綺麗です。やっぱり理解できないですね。こんなに描けるのに、なぜ同じようにコピーすることにこだわるんですか?スーパーリアリズム、そういうこと?いや、修羅さんはなんとかの主義を知るほど絵を好きでもないでしょう。」
「コピーでもこだわりでもない。さっきも言ったように、観察と描写だ。むしろ逆に質問したい。なぜ絵が好きでなければならないのか?」
「ただ、才能がもったいないから?」
「別に、絵を職業にしているお前の立場ならそう思うだろうけど。」
「そうですよね。修羅さんが嫌なら仕方ないですね。」
「好きか嫌か、そんな問題じゃない。明らかに言えば中立だ。これは別に絵に限ったことでもないけど。」
「それこそもったいないですね。」
「何が?」
「うーん。どうでしょう?」
女性は照れくさそうに笑いを漏らし、日光がベッドのシーツの上に置いていたペンを拾い上げ、再び日光に手渡した。
「もう一匹描いてみてください。蝶。」
「なぜ?」
「一匹だけだと寂しいでしょう。」
「ただそんな理由で?」
「ただそんな理由じゃないですよ。誰でも一人だと寂しいから。二匹いれば、傷の上の蝶も幸せになりますよ。後で愛する人ができたら、私たち二人を意味するんだって言って。すごく感動するわよ?」
「そんなことない。忘れたのか?俺は殺し屋だぞ。」
女性は肩をすくめた。
「殺し屋は人間じゃないの?先のことは誰にも分からないものよ。人生は長いでしょ。私の友達には短かったけど。」
そして女性は激しく泣き疲れて眠りにつき、タトゥーは次の日に受け取ることになった。
背中に蝶二匹を刻んだ日光は、女性が依頼した殺人を確実に処理した。依頼されていなかったが、タトゥーを倍にした分、標的を生きたまま渋谷の作業場に運び、拷問するというオプションも追加した。日光は女性の友人を殺した男の歯と目玉と性器と指と足指を次々と引き抜き、男の苦痛と絶望を無心に流した。罵声から悲鳴へ、悲鳴から物ごいへ、物ごいからすすり泣きへと変わる歌を聴きながら、日光はずっと二匹の蝶について考えていた。新しさ、変化、復活、自由、魂。新しさ、変化、復活、自由、魂。しかし相変わらず背中は熱かった。いくら美しい絵で傷を覆っても、その下には泥沼のような記憶が占めていた。その泥水は、どうにも沈まなかった。より沈むべき底がないからだろうか。
日光はいつもTシャツを上げて背中を向けた正義と共に、日光正義の中に閉じ込められていた。正義が日光をちらりと見た。その目つきは子供のものではなかった。少しも純粋ではなかった。おそらく一生そうだろう。今後も何も期待しない、すでに死んだ人生を形象化していたのが、日光正義だった。
そう思っていた。尊敬する赤見先輩に出会うまでは。
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