第26話 ただ私がタバコを吸ってるだけだよ。

ハードボイルド・セブン

エピソード4.春風

第26話




最初の手術後、意識を取り戻せば回復に問題はないと言った主治医の診断とは異なり、宇代は事故後3日目の今朝から状態が急激に悪化し、2度目の手術に入った。赤見と日光が井上病院に到着し、石原と合流したのは、宇代が手術室に移された直後だった。待合室に崩れている石原は、見ただけで動揺しているようだった。日光は赤見をちらりと見た。赤見は宇代の担当看護師から再手術の知らせを聞き、石原よりもさらに動揺しているところだった。


石原と赤見の間に座り、彼らの手や足の震えをそのまま感じながらも、日光はなんの慰めの言葉をしなかった。日光は既にこの手術は見込みがないと結論付けていた。そもそも赤見の体につけていた血液の量を見ても、最初の手術が成功したことは奇跡だった。そして二度目の手術は心肺停止が一度起こった後に始めたといった。そのような状態で60代の低体重の女性がこのような大手術を二度も耐えられるはずがない。日光は宇代に対して何の感情も持っていなかったため、宇代の手術に対して何の期待は持たず、ただ彼女が死亡した際に赤見が深く傷つかないことを願っていた。


日光の右側に座っていた石原が立ち上がった。石原は日光を見て言った。


「ちょっとタバコを吸いに行ってくるけど、一緒に来ませんか?」

「そんなの吸いません。」


日光は石原の意外そうな表情に驚かなかった。雰囲気のせいかどうか、日光が当たり前に喫煙者だと勝手に推測する人はいつもいた。日光がその反応を無視しようとした瞬間、日光の左から赤見が立ち上がった。


「私と一緒に行きましょう。」

「あれ、明さん。喫煙者だったんですか?」

「吸ったり吸わなかったりします。今みたいな時は少し吸いたくなって。」

「私は軽いのが好みだけど、明さん、これでいいです?」

「もらって吸うくせに、選ぶのは失礼ですね。」


ひそひそとタバコの話をする二人をぼんやりと見ていた日光が突然立ち上がり、赤見と石原の間に割り込んだ。日光は赤見が初めて見る驚愕の顔で、赤見の肩を掴んで激しく揺さぶった。


「先輩、喫煙者だったんですか?嘘!今までタバコを吸っているところを見たことないのに?」

「何だ、さっき石原さんにも言っただろ?お前といる間は吸わなかっただけだ。これ放せ。」


催眠命令ではなかったが、明らかにイライラした声に、日光はすぐに赤見の体から手を離した。しかし日光はまだぼんやりした顔だった。両手で口を覆い、もじもじと後ずさりする弱々しい姿が見慣れなかった。


「先輩が、喫煙者……。」

「お酒はお前の方がよく飲むじゃないか。」

「お酒の話がなぜ出るんですか?適量で飲むことと、タバコのようなゴミに中毒になって自制できず引きずられるのは全く別の問題です!タバコは時間ごとに何回も吸ってるじゃないですか!そんなの嫌悪しますよ!」


赤見が驚いて目を大きく開けた。日光が自分にこんな露骨に怒りをぶつけてくるなんて、以前の7月の家出事件のように個人的な理由が絡んでいるのか?赤見は玄関を去っていく日光の背中を思い出した。その日、日光が着ていた白い半袖Tシャツに映っていたタトゥーについて、まだ尋ねていないことも。


赤見は石原に先に外に出るように言った。気まずくなった雰囲気に、石原は頷いて素早く席を離れた。禁煙してからはしばらく経つが、一度の喫煙者は永遠の喫煙者。赤見はこっち側の廊下に入ってくるときから、この辺りでタバコを吸うのに適した場所を事前に目をつけておいた。石原もきっと同じだろうから、少し後からそこで合流すれば良いはずだ。


赤見は、石原が完全に遠ざかった後、日光を振り返った。


「日光。何だ。」

「何ですか。」

「今のこの反応。何だ。」


衝撃で割れた窓ガラスのように、日光の顔が歪んだ。その亀裂から爆発的に流れ出る複雑な感情が、肌に触れるように強烈に感じられたが、人付き合いが苦手な赤見としては、その感情のどれ一つも明確に名付けることができなくて胸が詰まった。


「日光、催眠術をかけて無理やりに言わせることもできる。」


その言葉は、かろうじて立っていた日光をほぼ殴りつけるようだった。赤見に向けられていた日光の瞳が震えながらじたばたし、あちこちに逃げ回った。赤見は、会話に弱い自分の頬を叩きたくなった。自発的に説明してほしいと思って言った言葉がだったのに、逆に日光を追い詰めてしまった。この程度でパニックに陥った日光を見るなんて。何なのか分からないが、日光の最大の弱点が今この会話の中に隠れている。赤見はそれを無理やり引き出したくはなかった。まだどんな形か完全に分からない背中のタトゥーのように、いつか日光が自ら表わすことを選ぶ時までは。


「あのな、日光。分かってるけど、もちろんそうはしないよ。これはただ…… ただ私がタバコを吸ってるだけだよ。だから、そんなに驚くことじゃない。私は未成年でもあるまいし。」


未成年どころか、お前より十歳も年上だ。文句を言いたかったが、雰囲気のせいで飲み込んだ。どれだけ会話が下手だとしても、そのくらいは分かっていた。幸い、日光は深呼吸一つで、先ほどまで激しく慌てていたことが嘘だったかのように、一瞬に自分を落ち着かせた。漂っていた瞳が正確に赤見を捉え、焦点を戻す様は、風に吹かれて花蕊から一枚ずつ舞い落ちる花びらを撮影した動画を高速で逆再生したように印象的だった。赤見はごくりと唾を飲み込んだ。恐ろしいほど強い精神力だ。赤見はもしかしたらその精神力のせいで、記憶を忘れるようにかけた自分の催眠が効かなかったのかもしれないと推測した。


もしかしてではなく、それが真実かもしれない。赤見は、日光よりも強い自我を持つ人に会ったことがなかった。命令された尊敬という感情が一層重ねられただけで、日光は自分自身からほとんど何も失わず、むしろよりはっきりと存在感を示していた。感情的な催眠には逆に他の一般人よりも脆弱だったが、それもいつか理由がわかるはずだった。


このまま日光とずっと一緒に過ごすなら、いつか。


「なぜ、吸ったり吸わなかったりとするんですか?」


日光の声はまだ非常に尖っていた。こんなことまで解明しなければならないのか。平凡だった待合室の廊下が、突然綱渡りをしているようギリギリに感じられた。赤見は、大したことない理由で追及される立場に置かれたことが悔しかったが、ここで日光の怒らせて余計な余波に巻き込まれたくなかった。赤見は慎重に言葉を選んで、適切な返答を返した。


「ただ、昔から、どうすればいいか分からない気分になった時には、マイセンを一箱で全ての思いを燃やした。」

「マイセン?」

「マイルドセブン。タバコの名前だよ。お前本当にタバコについて何も知らないんだな。赤マルみたいなのを吸うような格好して。」

「赤マルってまた何ですか。いや、いいです。とにかく、先輩が吸っているのはマイセンということですね。それ以外はあまり知りたくないです。」


日光はしばらく沈黙してから尋ねた。


「そうすることで何か良くなるのですか?」

「まあ、気分だけかもしれないけど、とりあえずはそうだな。お前と一緒にいるときにはなぜか、タバコを吸わなくても平気で。ただ吸わなかっただけだ。特にお前を騙そうとしたわけじゃない。」


喫煙者だからって。 これがこんなに言い訳することなのか?自分にも少し情けないように聞こえる自分の声に、赤見はため息をついた。相手の感情を考慮して、こんなに念を入れて話すことはほとんど初めてだった。日光といると、初めてのことが多かった。面倒くさい。面倒くさいけど……。


赤見は、日光がこれ以上話したくないように腕を組んで椅子に座るのをみて、後ろを向いた。さっきまではただ軽く一本吸おうと思っていたのに、今では本当にタバコがもたらす慰めが切実になってしまった。

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