第25話 誰も決して永遠に……。

ハードボイルド・セブン

エピソード4.春風

第25話




赤見は電車の中を歩いていた。窓の外は薄暗い空に白い雪が舞っていたが、はかばかしくない照明がまじくじする客車の中は外よりも暗かった。


赤見はこの日を覚えていた。人々が電車に乗り降りの間、客車の端のとびらが開くたびに押し寄せてくる冬の空気の冷たさと、隣の席に座っていた名も知れない乗客のコートに染み込んだ毛織物の特有のさっぱりしてない匂いまで、全て。


今はその乗客はもちろん、誰もこの列車に乗っていなかった。赤見はその事実に驚かなかった。特に目的もなく、前へ進みながら客車から客車へと絶えず渡るだけだった。


20番目の客車の扉を開けた頃だった。今回は客車の中の1番目の座席に、分け目で黒い髪を綺麗にとかした少年が座っていた。少年は突然自分の客車に侵入した赤見をじっと見つめた。赤見はため息をついた。そして、もともとそうするつもりだったように自然に少年の隣の座席に座った。どうせ今回少年を通り過ぎても、この列車の客車は輪のように繋がっているため、赤見は結局この少年と再会することになる。


「また来ましたね、おじさん。」

「ああ、そうだね。」


そうして赤見が口を閉ざすと、少年は少しもじもじしてから、羽織っていた分厚いコートの中に手を入れた。


「食べますか?おいしいですよ。」


少年は飴5、6個をきつく握り締めた小さな拳を赤見に差し出した。赤見は色とりどりなビニールに包まれた飴の一束を無言で眺めて、少年からそれを慎重に受け取った。チョコレート味といちご味を選んで口に入れ、一生懸命転がしても、飴からは何の味もしなかった。この夢に飴が登場したのは初めてだったので少し期待していたが、やはり味は感じられないようだ。


「普段は一日一つずつくれるのに、今日はお父さんが飴の箱を全部くれたんです。」

「そうしたのが思い出すな。最近この夢をよく見ると思っていたが、もう忘れていた細かいことまで蘇ってきている。日光の奴に話したことが間違いだったのか。」

「日光?おじさんが他の人の話をしているのは初めて聞きました。友達ですか?」

「いや。」


赤見は思わず即座に反論し、眉をひそめた。どうせこれは自分の夢だし、この少年は自分の子供のごろの記憶が形になったものに過ぎないのに、ここに言い訳をする必要ないだろ?


「友達ではなく、少し気になっている奴で、殺し屋だし、私に恨みもあって私を殺そうとしている。催眠にかかった状態はまた別だけど、本質はそうだ。」


赤見にしては珍しく虚心坦懐に本音を吐き出したのに、少年はその答えに満足していないようだった。


「気になるってどういう意味ですか?」


赤見は顔杖つきて悩んだ。気になるって、つまり、つまり、目障りだということ……。面倒くさいってことだ、要するに。赤見がそう答えようとした瞬間だった。少年は席から飛び降りて反対側の窓辺に近づいた。客車の壁に沿って長く続く窓からは、いつの間にか雪が降っていた風景が消えて大洗の海岸を先頭で歩いている日光の絵のような後ろ姿が映っていた。


「何でこんな……。」


少年は窓ガラスに手を置いたまま赤見を見つめた。


「気になる、目障りだ、面倒くさい、全部嘘ばかりですね?本当は振り返ってほしかったんでしょ?今みたいに一つ一つ大事にしてくれて、おじさんの行動に一喜一憂しながら心を配ってくれて、ずっと一緒にいてほしかったんでしょ?」


静かに囁いていた少年の口調が変わった。ほぼ歌うことに似たメロディに乗せた皮肉が、赤見の胸を鋭く突き刺した。


「いや、私は、そこまでは……。」

「日光が殺し屋じゃなかったなら。私を殺そうとしていなかったなら。」

「だから私はそういう……。」

「催眠術にかかったからじゃなくて、本気で私についてきてくれたならよかったのに。」


赤見は座ったまま固まってしまった。そんな考えを一度もしたことがないならそれは嘘だ。しかし、あえて明確な言葉で定義しなかった気持ちが、目の前に無理やり押し入れることになったら事新しい衝撃が赤見を强打した。強制的に裸にされたような羞恥に、頭の先まで熱が上がった。


「春風に連れて行けたならよかったのに。春風だけでは催眠術を使わず、普通に人々と接することにしたんでしょ?春風の社長である宇代さんを見ると母親を思い出してしまうから、そんなルールを決めたんだろ。」


言葉を失った赤見を放置したまま、少年は舌を鳴らした。


「そうなのにお前がそんなことを望んでもいいのか?お前忘れたのか?母親と宇代さんがどうなったか?」


その瞬間、赤見は席から飛び起きた。赤見の頭には、赤い血で染まった春風の厨房の床が思い出した。吐き気が込み上げてきて、急いで口を押さえた手がぶるぶる震えた。どうして忘れていたんだ?宇代さんが大怪我をした。宇代さんを探して、助けなければならない。赤見は扉に向かってよろめきながら歩いていった。


「そう!行ってしまえ!宇代さんを探してみろ!どうせ母親はもう永遠に消えてしまったからな!」


扉の取っ手を回して開ける赤見の後ろで少年が必死的に叫んだ。


「日光は違うと思う?お前の催眠術に操られる奴が何が特別で?どうせお前は結局あの男までも失うことになるぞ!本気で付き合いたい?ずっと一緒にいたい?バカ野郎!実父さえお前を捨てたのに、完全な他人にまだそんなことを望んでいるなんて?一体どこまで醜くなるつもりか、赤見明!好き勝手に期待しても、あいつは最後まで絶対に………。お前は二度と誰とも………。誰も決して永遠に……。」


開いた扉の隙間から荒れた風が吹き込み、髪と裾を容赦なく揺さぶった。激しい風の音に埋もれて少年の声がうなりながら遠ざかった。赤見は目を閉じた。足元を素早く通り過ぎる地面に向かって体を投げ出すことは、夢だと分かっていても、いつも躊躇うことだったが、仕方なかった。列車の夢から覚める方法は、これしかないから。


赤見はびくっと驚いて浅い眠りから覚めた。もう朝か。まだぼんやりとした意識がゆっくりと広がり、赤見の全身に感覚を引き起こした。留置場の隅に丸まって座っていたため、こわばった首と背中をほぐす暇もなく、赤見は急いで立ち上がった。留置場の前に立っていた警察官が近づいてきて、扉を開けてくれたからだ。


「赤見明さん。出てきてください。」

「行ってもいいですか?私の携帯電話を返してください。」

「はい、所持品は外で受け取ってください。よく聞いてください。今完全に釈放するわけではなく、仮釈放です。事件現場にいたため緊急逮捕されましたが、取り調べにも協力的に応じて、被害者を傷つける動機がなく、証拠や容疑も不十分のため、検察へ送致する前に釈放するものです。今後自宅や職場に調査官が派遣されることがあるので、連絡は必ず受けてください。」

「はい、はい……。」


赤見は、次から次へと説明する警察官に上の空に頷き続けた。逮捕の後、接見交通権、黙秘権などを行使できると告知されたが、赤見は二日間、いかなる権利も要求せず、誠実に取り調べを受けた。被害者の血を被った状態で警察署に連行された赤見に対し、容疑者だと偏見を持って取り調べを始めた警察官たちも、その諄々に態度に疑いを解き、このままには検察に送致できないという結論に至った。


赤見はすぐに日光に電話をかけようとしたが、返してもらった携帯電話は完全に放電していた。仕方なく、とりあえず家に帰るつもりでとぼとぼ歩いた。入り口に面したロビーに入ると、自販機の前でメニューを選んでいた日光と運が良く会った。日光は赤見を発見してチョコレートミルクと書かれたボタンを素早く連打した後、出てきた飲料を赤見に差し出した。ちょうど喉が渇いていた赤見は、日光が差し出したチョコレートミルクを掴み取るように受け取り、がぶがぶと飲み干した。


「うわっ、先輩!ゆっくり飲んでください!そうしたらもたれますよ!」

「大丈夫。全部飲んだ。」

「だからそんなに早く飲まないでって……!いや、わかった。まずは充電させてもらいますか?今、催眠術にかかってから3日目が始まったばかりで、期限がギリギリですよ。」

「あ!」

「あ!って、先輩、まさか忘れていたのではないでしょう?!俺はこのまま今日もう先輩に会えなかったらどうしようと本当に焦っていたんです!俺に殺されたくなければ、お願いだから警戒心を持ってください。俺は本当に先輩を殺したくないんですよ。本当に俺から生き残って欲しいんです。でも先輩はこんな俺の気持ちも知らないうちに俺を完全に忘れていたなんて、これって本当に裏切られた気持ちです。あ、裏切りじゃないのか?殺意が湧き上がってくるような……。」

「分かった、分かった。分かったから、とりあえずこっちに来い。」


赤見は自分の目のあたりに指を軽く動かした。もう少し近づいて素直に視線を合わせる日光に、赤見は自分への尊敬の念を改めて示した。日光はようやく安心したように眉間を緩め、肩も緩やかに下ろした。焦っていたのは嘘ではなかったようだ。今日まで一睡もできなかったのか、日光の目の下にも赤見と同じようなクマがかかっていた。いつも活気にあふれていた日光が疲れている姿は見慣れないことだった。


ふむ、それでもあっちは元がかっこいいからか、二夜も夜更かしをした姿も単にやつれたというよりも、退廃的な魅力が増した感じだ。赤見は、顎にざらざらと生えた短い髭を掻いた。


「そして、私もお前のことを完全に忘れていたわけではない。」

「さっきそんな反応をして、その言葉を信じろと言うんですか?」

「信じようが信じまいが、本当だ。」


夢に出てきたから。これは言わないけど。


「それでも思ったより早く釈放されたんですね。72時間もかかると言っていたから、今日は潜入しようと思っていたんです。」

「潜入……。」

「まあ、以前は保釈で出られるつもりでしたけど、それは裁判で起訴された被告だけに可能で、先輩のように現場で緊急逮捕された場合は出来ないと言いました。」

「証拠不十分で一応仮釈放された。それより、差し迫った問題を処理したから、宇代さんは? 調べたか?」

「安心してください。宇代さんは今、井上病院で手術を無事に終え、安静にしています。まだ意識は戻っていませんが、意識が戻れば回復は問題ないみたいです。あんなに血を流したのに、本当に天運です。」


宇代さんは無事だ。赤見は緊張が解けて、そのまま倒れそうになる体を無理やり立ち直した。


「では病院にすぐ行く。車は持って来たか?」

「はい、まあ、そうですけど……。」


気乗りしないようににごす言葉じりに、赤見は眉をひそめて日光を見上げた。


「何で?車に問題でもあるか?」

「いいえ、そうじゃなくて。なぜあの女をそんなに気にするのかと思って。」

「何?」


日光は肩をすくめた。一見軽そうな態度だったが、微妙に沈んだ目つきが、なぜか無視しにくい雰囲気を漂わせていた。


「先輩は誰とも交流してないみたいでしたけど、俺以外に例外がいるとは思わなかったんです。ただの喫茶店の社長と常連客の関係だとするのには、先輩の行動が変じゃないですか。」


何か答えにくい質問だった。宇代さんは昔、私の過ちで失った母親を思い出させる。ただ通り過ぎるのが難しくて、母親に犯した罪を贖う気持ちで見守って手伝っている。だから、私は彼女にだけは催眠術を使わない。春風の客にも催眠術を使わない。春風は私にとってこの世で唯一の聖域だから。だから、催眠術にかかっている日光、お前はその店に足を踏み入れないでほしい。そう言えばいいか?


そんなこと出来ない。赤見は宇代さんに対する個人的な気持ちを誰にも見せたことがなかった。ただ少し一緒にいただけの日光に、今さらそれを打ち明ける理由もないし、宇代さんに献身する自分について日光がどう思って反応するかを耐えられる自信もなかった。何より一番心配なのは、自分が宇代さんを大切に思っている事実を日光が知ってしまったら、もし日光の催眠が解けた時、宇代さんの安全が脅かされる可能性があることだった。


そうなると赤見としては、宇代さんも日光も全部失ってしまうはずだった。


……宇代さんならまだしも、日光を『失う』なんて。赤見はそう考えた自分に驚いた。疲れてしまったのか留置場で見た夢のせいか、勝手に膨らむ感情を片づけするのが難しかった。


空っぽの牛乳パックをゴミ箱に気難しく投げ込む赤見に向かって、日光が尋ねた。


「その女がなぜ特別なんですか?他の人間と何が違って?」

「特別じゃない。これは、だから……。」

「先輩が石原のようにその人の隠れた息子でもないし。」


赤見はぼんやりと瞬きした。赤見は半拍遅れて驚いた。


「い、石原が彼女の息子だと?」

「何だ、知らなかったんですか?別途に内偵もしてないんですか?」

「なぜそんなことをするんだ……。」

「それは先輩が催眠術師だから、欲しいものは何でもできますから?それに先輩はあの女に興味深いでしょう。もう催眠をかけてみたと思いましたけど、そうじゃないんですか?」


この質問こそが危険だ。赤見は顔を拭く振りをして表情を隠し、日光から背を向けた。


「とにかく病院に行く。乗せてくれなくてもいいから、お前はついてくるか家に帰るか、好きにしろ。」

「少し休んでほしいですけど、どうせ俺の言葉は聞かないでしょう。一緒に行きましょう。」


日光は車に乗るとすぐに目を閉じ、シートに倒れるように全身を伸ばす赤見の肩に手を伸ばし、シートベルトを代わりに締めた。熟練した手つきでハンドルを回し、駐車していた場所から車を出した日光は慎重にアクセルを踏んだ。伸びている赤見に車体の揺れが届かないようにする意図だった。


「行けばまた石原と会うんですね。あの人、思ったより面白い人でした。」

「会ったのか?その間にあいつと仲良くでもなったのか?」

「ちゃんと仲良くなりました。俺ってあまりにも魅力的ですだからね。」

「まあ、そうだね……。」


赤見は、無意識に日光のあからさまな冗談に本気で同意した後、すぐにぎくりと固まった。強く閉じられた瞼の向こうに、日光の視線があふれるのがそっくりそのまま感じられた。


「先輩、今本当に疲れてるんですね。本音とか漏れてるし。」

「本音じゃないよ。」


日光はくすくすと笑った。


「いや。先輩、俺の魅力に夢中になってるでしょ。特に俺の顔が好きなのが全部バレてますよ。そうやってちらちら見ているのをどうしたら分からないんですか?先輩は恥ずかしがり屋だから、俺が今まで気づかないふりをしてただけでしたよ。」


何だって?赤見がうめき声を上げると、日光の笑い声がさらに大きくなった。しばらく笑っていた日光は、赤見をからかうつもりでしつこく揚げ足を取った。


「それで、俺の顔のどこがそんなに好きなんですか?」


うんざりしたように細めた目で日光を睨みつけていた赤見は、ため息をついた。日光の言う通りだ。今、自分は本当に疲れていた。宇代さんが怪我をしたことも、取り調べを受けて留置場で夜更かししたことも、日光との奇妙な関係に対する自分の欲張りをいきなり向き合ったこともそうだし。精神的にも肉体的にも弱気な赤見にとっては耐え難いことばかりだった。赤見は、なるようにしかならない胸中で答えを考えた。


「さあ。目かな。あえて言えばそうかもね。」

「目?本当です?なぜ?」


きちんとした返事が返ってくると思っていなかった日光は、目を丸くした。そんな馬鹿げた表情は初めて見たが、なぜか悪い気分ではなかった。赤見は日光の顔を改めて見渡した。整った額、きちんとした眉毛。まっすぐに伸びた鼻梁、形の良い薄い唇。鋭い顎のラインはもちろん、すべての部分が丁寧に作り上げられたような繊細な顔立ちは、日光を初めて見た人なら思わず感嘆の声を上げるほどだった。


しかし、赤見が好きな日光の魅力は、単純に表面だけにとどまらなかった。


「お前の目からは純粋さが感じられるから。」


大きな笑い声と共に自慢げな返事が返ってくると思っていたが、日光は何か考え込んでいるような表情で沈黙に包まれた。赤見は疲れ切っていて、日光の反応について深く考えず、すぐに眠りに落ちてしまった。

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