第24話 既に取り返しのつかない破滅した人生ではないか。

ハードボイルド・セブン

エピソード4.春風

第24話




春風にはさらに多くの警察官が押し寄せ、ポリスラインを張って一般人の接近を遮断した。もともと探偵ごっこみたいに中を覗くつもりもなかった日光は、近くの路地に入り、警察から身を隠してひまわりに電話をかけた。


「宇代恵子。年齢は聞いてない。性別は多分女性だろう?春風という喫茶店と関係がある観たいけど、詳しいのは俺も知らない。」

「何も知らないのか、と恥をかかせたいけど、実はそれで十分よ。10分以内にまた連絡する。」

「わかった、頼む。」

「ただで?頼みをするのなら、あのおじさんの下から出てきて、まともな仕事しなさい。」

「何だって?よく聞こえない。切る。」

「こらっ!」


日光は叫び声を出しているひまわりの電話をすぐ切り捨て、ため息をついた。会うたびに引退を取り消すというひまわりの無茶を無視するのも、そろそろ面倒くさくなっていた。もちろん日光も、自分が業界の頂点に立つ殺し屋という職業から離れることが名残惜しくないわけではなかった。人を殺すことは、莫大な金と、裏社会での名誉と、日光自身が自分の体をよくコントロールしているという全能感を与えてくれた。


俺の手先に相手の生死がかかっている感覚。それは凡人が想像するより重いものではない。そんなものは受け入れること次第だ。日光はすぐにでも雨が降りそうな曇り空を見上げた。神罰?業報?そんなものが存在するなら、とっくに粉々に砕けて消え去るべき人間は他にいるけど?


院長がどのようにこの地に引っ付いて生きているのか、日光はあえて調べようとしなかった。知りたくないし、これ以上関わりたくもない。代わりにという名目で彗星総一郎を殺害はしたが、不思議なことにその本人を会いに行く気は少しも起こらなかった。出会う人は誰であれ、脳天を見下ろすほど背が伸びて、刀を持たなくても人間一人くらいは簡単に殺せるほどの力を身につけたのに、院長はまるで日光の影を踏んでいるかのように、日光を身動きできず無力にさせていた。


「はっ……!」


空笑いが吹き出してしまう。少しでも余裕になったら意識はこうやって過去の暗闇に引きずり込まれていく。逃れることはできない。日が経って、経ち続けとも、子供の頃の記憶はずっとその場に立ち尽くし、日光を待っていた。金でも名誉でも全能感でも、結局は何も関係なくない?誇りなんて、見かけは立派な言い訳に過ぎない。既に取り返しのつかない破滅した人生ではないか。日光は両頬がへこむほど口の中の肉を噛みしめた。苦味が消えずに、強い酒を飲み干したくなった。


正義、正義。院長の声がいつも通り耳介にくっついてきた。しかし、その不快な幻聴は、すぐにたった一度だけ聞いた赤見先輩の呼び声できれいに覆い隠された。


正義……?


日光は長い息を吐き出し、路地の壁に背中を預けた。一瞬止まっていたと思った時間が、再び動き始めた。しっかりしろ。すぐにひまわりから連絡が来るし、そうすればこんな雑念に浸る暇もなく、また次から次へと仕事が山積みになるだろう。何が起こったのかを把握したら、警察から赤見先輩も取り戻さなければならない。日光は血まみれだった赤見の姿を思い出した。


先輩の血ではないことは分かっていたので驚かなかった。先輩は少しぼんやりしていただけで、痛みに対する反応は見せなかった。何より、『宇代恵子』という女性を探せという命令したのをみたら、おそらくその女性の血か、その女性が殺した人の血だろうと推測するのが妥当だ。前者の方の可能性が高いだろう。日本国内の女性犯罪者の割合は、全体の犯罪者の20%程度だから。これすら強盗や殺人などの凶悪犯罪に限定した割合はさらに低い。


それよりも気になるのは、その女性と赤見の関係だ。まさか恋人?多分違うだろう。日光は赤見が顔の知らない女性と付き合っている姿を想像し、思わず笑い出した。尊敬する先輩には申し訳ないが、催眠術にかからない限り、そんな陰気で口下手なおじさんを好きになる女性はいないだろう。


そう考えると、赤見は生まれつきの催眠術を使って誰にでも手に入れられるはずなのに、誰も欲しがらず、これまで一人で閉じこもっているのは、相当人間が嫌いなのだろう。もし赤見が同年代の男たちのように平凡に家庭を作っていたら、自分は赤見の妻と子供まで徹底的に守っていたはずなのに。


しかし先輩はそんなつもりはない。だから日光は赤見を独占する機会を得た。先輩は永遠に、俺のものとして残る……。


手のひらで携帯が鳴った。日光は怪物のような反射神経で、一度の着信音が鳴り終わる前に電話に出た。


「10分過ぎたけど?」

「それを数えていたの?この感謝も知らない……!」

「いや、感謝はしてるさ。それで?宇代恵子って誰?可愛いのか?」

「可愛いのか、とか言ってる。美人ならあんたがどうするつもりなの?64歳で離婚した方ですよ。」


日光の頭上に疑問符が浮かび上がった。日光がぼやっとしているかどうか、ひまわりの声は穏やかに続いた。


「宇代恵子、64歳。既婚だったけど死別した。約40分前に不審者に襲われ、現在は井上病院で手術中だよ。前夫との間に息子が二人いるが、特性がある。あ、その前に名前から。それぞれ名前は、長男・石原翔太32歳、次男・石原拓也29歳……」

「……ちょっと待って。後で電話する。」

「何?マサピ!」


電話を切った日光は、先ほど視界に入った金髪の男を捕まえるために、急いで路地に出た。金髪の男、石原翔太は春風の入り口に張られたポリスラインを無視して中に入ろうとしていた。店に入ろうとする石原と、それを止めようとする警察官たちの間に割って入った日光は、いきなり石原の肩に腕を回した。石原が驚いて飛び上がろうとしたのを強い腕力で押さえつけた日光は、警察官たちに人懐っこく微笑んだ。


「はぁー、ご苦労様です。こいつが昼間から酒を飲みましてですね。」


日光は、警察官が無駄に石原に興味を持って調査を始める前に、石原を連れて現場から遠ざけた。もちろん石原の激しい抵抗があったが、日光にとってはハムスターの抵抗とあまりに違いがないレベルだった。


警察がもう見えなくなったところで立ち止まった日光が石原を振り返った。日光の固い手に握られ、引きずられてきた石原は、顔が真っ赤になって息を抜けていた。


「石原さん。」


日光が優しく最初の言葉を口にした。すぐに石原の反発が続いた。


「放せ……!」

「俺のこと覚えていないんですか?6月にスターバで会った赤見先輩の後輩、日光です。」

「え?あ!」


覚えていても、今のような混乱した状況では、偶然すれ違った顔は気づかないのも当然かもしれない。まして母親が殺害されたかもしれない状況では。


石原翔太という名前が比較的にありふれていることを考慮しても、被害者が社長を務めている喫茶店の常連と被害者の息子が同姓同名であることは珍しいことだ。


「石原さん、なぜここにいるのですか?」

「え?」

「あなたは春風の社長である宇代恵子さんの長男ではないのですか?」


石原は当惑した表情をした。もちろん日光はものともしなかった。


「おかしいですよね?」


低い声が慇懃だった。赤見のような催眠術があればより簡単だったけど、日光はそれに匹敵するほど主導権を握り、相手を重いままにしながら雰囲気を掌握する方法を心得ていた。


「宇代さんは今、病院で手術中です。息子であるあなたなら、とっくに連絡を受けているはずなんですけど?」


日光は石原翔太が宇代恵子を傷つけた犯人である可能性を当然ながら念頭に置いていた。最近になって標的を意図せず、無差別テロ犯罪が増加傾向にあるとはいえ、家族や身近な知り合いはいつも容疑線上の第一候補だ。日光に入ってくる殺人依頼の12分の1くらいは、自分の家族を殺してほしいという依頼だった。


だから今は容疑線上の相手を先回りした情報力で揺さぶる時だと、既に計算を済ませた日光は石原に一歩近づいて彼を追い詰めた。


「なぜあっちに行かずにここに来たんですか?今すぐにこの店の中に入らないとならない理由がありますか?理由があるなら、それは何なんでしょう?石原さんが危篤だ母親の手術室の前を見張るよりも、まずこの店に駆け込むべきだと思いさせることですよ。」


石原は短い沈黙の後、口を開いた。


「お前、無礼な奴だったね。」


日光はにやりと笑った。


「特に間違ってないけど論点から外れているぞ。俺の質問に答えられないから、態度を問題にしているんだろ。これをどこまで遠回しに言わせればいいのか?理由はさまざまだが、犯人は本来、犯罪現場に戻ってくるものだ。例えば、犯罪の当時に残した証拠がどこにあるのかを確認したいとか。」

「そんなことはいい。母親が入院した病院はどこだ?何でだか分からないが、お前 は知っているみたいだね。」

「何?」

「こんな時間ないから早く言って。母親が入院した病院はどこだ?」


急がせる石原からは特に嘘をついている様子はなかった。石原の柔らかい茶色の瞳が少しも揺らさず、日光の黒い三白眼をまっすぐ向かい合った。日光は眉をひそめた。間違えたのか。状況からしてほぼ確実だったのに。


「井上病院だ。」


石原は返答もせずすぐに背を向けた瞬間、タイミングよくひまわりから届いたメッセージが日光の携帯電話の画面に表示された。あんたが勝手に電話を切ったから全部言えなかったけど、変わったところ、家族全員が9年前から法的に絶縁した状態なの。そんな中、次男は2年前から行方不明。


もうタクシーを呼んで搭乗している石原を追いかけた日光が閉じていく車のドアをガッと押さえて大きな体を素早く車の中に押し込んだ。


「何?!何でついてくるの?!」

「急いでいるんじゃないですか?運転手さん、井上病院までお願いします。」

「運転手さん!こいつを降りてください!」

「はい?そんなことできません……。」

「聞いたでしょう?運転手さんに迷惑をかけずに黙ってください。」

「は、ムカつく、こいつ!」


日光は石原を落ち着かせるため、両手を広げて親切に説明を始めた。


「母親の状態より犯罪現場を確認することを優先したから、あなたが犯罪容疑者だと考えたんですよ。しかし今見ればそうでもないですね。親孝行息子っぽいですね。」

「俺もどこかでずうずうしいのは負けないが、お前はレベルが違うね。これ絶対に履歴書に書けて。」

「わあ、石原さんも知っていたんですね?石原さんがずうずうしいこと?」


その後、石原の拳が飛んできたが、日光は簡単にその拳を掴んだ。拳を再び引き抜こうと必死になった石原が震えながらついに諦めて力を抜くと、日光はようやく彼の手をおとなしくに離した。石原はがっかりした顔をして、痛む手首をあちこち回した。


「本当にヤクザじゃないの?何でこんなに力強いの。」

「俺はヤクザではなく、赤見先輩の元職場の後輩で、現在は私立探偵です。赤見先輩から、春風の社長に起きた犯罪を調査してほしいと頼まれて仕事をしている最中でした。その途中で、石原さんにいくつかの怪しい点があったから犯人だと推測していたんです。まあ、今となっては違うことが分かったから、捜査はやり直さなきゃいけませんが。」


探偵だと? 石原は目を瞬かせた。そうすると、これまであった不思議な出来事が理解できる。


明さんは春風を経営する母親に対して、いつも礼儀正しく親切な客だった。人がどれだけ優しく情深いのか、昨年春ごろ、店がSNSで偶然バズって客が急増し、人手が不足になったら自ら手伝いを申し出るほどだった。しかし、その温かい心とは裏腹に、仕事はひどく不器用で営業の妨げになってしまったが、そんな好意を見せてくらたことだけで、石原は彼に深く感謝していた。そんな明さんが個人的に私立探偵と親しい関係があるなら、このようなことが起きた時、当然その人に助けを求めただろうと思った。


「そうか、明さんが……。」


緊張が解けた石原が体に力を抜き、背もたれに頭を預けた。この日光という男が自分を疑っているのも、母親を襲った真犯人を探すためなら、何でも受け入れることが出来た。


あっという間に真っ赤な嘘を次々と吐き出した日光は、もちろん一切の罪悪感も感じずに話を続けた。


「ともかく現場を確認したので、俺も宇代さんが大丈夫か見に行こうと思っていまして。行き先も同じだから一緒に行きましょう。」


警戒を解いた石原は頷いた。実際、こんな辛い時、誰でもいいからそばにいてほしかったのだ。


もし、母親が本当に亡くなったとしても、拓也は現れないだろうから。

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