第23話 ここから先は外とは異なる世界だ。

ハードボイルド・セブン

エピソード4.春風

第23話




朝早くに来て拭いておかないと。赤見は自分も気づかずに呟きながら、昨夜東京全域の頬を激しく叩いた豪雨のせいで、めちゃくちゃに汚れが飛び散ってついに不透明になってしまったガラス戸を慎重に引き開けた。


必要以上に古風な書体で『いらっしゃいませ』と書かれた古い敷物の馴染んだ柔らかさが、赤見の足の裏に優しく触れた。たった一歩。それだけで、これほど温かい平和を手に入れられるという事実はいつも新しい。


喫茶店春風の内部に完全に足を踏み入れた赤見はゆっくりと繰り返した。ここから先は外とは異なる世界だ。今からはどんな催眠術も使わない。


赤見はいつも通りに昭和風に飾った喫茶店の真ん中に立って、店内を一度見回した。この店一番の人気席は、唯一窓に接したテーブルだ。その席は、この店の常連なら誰もが欲しがるが、普段は石原が貸し切ったように、店の開店時間からまたしばらく占めたまま去っていく。ホストという職業の特性上、夜明けに仕事を終えてすぐにこの店に風のように駆け込む石原に誰も敵わなかった。彼の脱色した長い金髪が朝の日差しに輝いて、彼が自分の軽やかなイメージとは似合わない熱い紅茶を優雅に少しずつ飲む姿を、ただ見守るしかないのだ。


しかし今日はそんな石原も他の用事があるのか、窓際の席も空いていた。めったに来ない特別席に座る機会をうかがうべきところだが、赤見はいつものように店の最も奥の、隠れているようにした隅の席へ足を運んだ。


隅の席の中でもさらに隅を探し、潜り込むようにしゃがみ込んで座った赤見は、コーティングが剥がれて端が垂れ下がり、黄色く色あせたメニューの表面をそっと撫でながら、店の主人が自分を気づいて注文を取りに来るのを黙って待っていた。やがて、半分くらい白髪交じりの髪を束ねた中年の女性が厨房の扉を開けて出てきて、赤見に近づいてくるはずだった。


木製のテーブルの上に置かれた呼び鈴をただ見つめていた赤見が何か違和感を覚え始めたは、座ってから約10分が経った頃だった。


女主人は来なかった。アルツハイマー病を患っている女主人は、常連客の顔や名前をすぐに忘れてしまうことがあっても、耳だけはすごく鋭かった。そんな彼女が、厨房の近くにある隅の席に座っている赤見の気配を気づかなかったはずはなかった。


赤見は理由の分からない不安を感じながら、目の前の鈴を一度押してみた。澄んだ清らかな鐘の音が無視できない存在感を放ちながら店内に響き渡ったが、女主人はやはり厨房から出てこなかった。赤見はようやく眉をひそめ、席から立ち上がった。そういえば店の中があまりにも静かすぎた。まだ早い時間なので他の客がいないので店内が静かなのは当然だが、ずっと開店準備をしているはずの厨房からも何の音も聞こえないのは怪しかった。


胸の奥が不安で縮み上がった。赤見は唇の内側を噛みしめながら厨房に近づいた。木で作ったため長年湿気を吸い込み、もう扉枠に合わなくなった古い扉が斜めに挟まっていた。完璧に閉まらないため鍵をかけない扉だったのは幸いだった。赤見は取っ手を握り、力を込めて引いて扉を開けた。


そして目にしたのは、白いタイルの床を赤いカーペットのように覆い尽くす血だった。ワインでもこぼしたのかと信じたいほどだったが、この生臭いにおいは血に違いない。赤見は足の力が抜けてその場に座り込んだ。そっと触った液体は、まだぬるかった。赤見の瞳は消えかけのロウソクのように、細かく揺れた。この厨房を使うのは宇代さんだけだ。これが、これが宇代さんの血なら……。


どれくらいそうしていたのだろう。


「そこ!動くな!」


突然の怒鳴り声に赤見は驚いて反射的に立ち上がったが、床に満ち溢れていた血を踏み滑り、ついに血の池の上に転がり落ちてしまった。その不器用な姿に、呼び出した当事者さえも呆然とした。一瞬沈黙した男は赤見に近づき、手を差し出した。


無意識にその手を握った赤見は、すぐに続いて手首にがちゃりとかける冷たい金属の感触を感じ、顔を上げて自分を助けてくれた男を見上げた。男はつばのついた紺色の帽子をかぶり、警察のマークが描かれた制服を着ていた。赤見はかつて気づかなかったが、これまで気が抜けていた間に、誰かが赤見の姿を見て警察に届けたようだった。警察は荒々しい力で赤見を強制的に引き回した。彼が赤見の残った手首に手錠をかけ、硬い声で命令した。


「署まで同行願います。」


赤見は全身が血まみれで、手首に手錠がかけられた不審な姿でパトカーに押し込まれた。宇代さんはどうしたのかと何度も尋ねたが、警察は一切返答しなかった。通行人たちも歩いた道を止めてから立ち止まり、ひそひそ話すのが感じられた。当然だろう。赤見自身も、今自分の姿を横から見ていれば、そんな反応が自然と出るはずだ。


しかし、重要なのはそれではなかった。宇代さんが危険だ。大怪我をしたか、あるいは……。宇代さんを失うかもしれないという事実が再び頭に浮かぶと、赤見は全身が震え上がった。ダメ。ありえない。また同じ失敗を繰り返すわけにはいかないのだ。手足が不自然な角度で曲げられたままパトカー内に乗せられた赤見は、必死に窓の外を眺めて、見開いた。似たような背丈の通行人の中に、一人突然突出している黒くすらっとした人影に見覚えがあった。


「日光!」


パトカーのエンジンがかかった。躊躇する時間はなかった。赤見は一度も出したことのない大きな声で日光に向かって叫んだ。


「『宇代恵子』を探せ!命令だ!」


真っ赤に燃え上がった赤見の目が、車窓の向こうに恐ろしい光を放つのを見つめながら日光は頷いた。どうせここまで先輩を尾行したことがバレたことをとがめられないためには、何でも実績を挙げなければならなかった。

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