第21話 悪鬼を見たからではない。
ハードボイルド・セブン
エピソード3. 彗星
第21話
赤見の家は非常に広くて、リビングから玄関までの距離は結構あったが、赤見の視力は良かった。薄い夏の白い半袖Tシャツを着て背中を向けた日光の肩甲骨のあたりに、薄くタトゥーの形が二つくらいが透けて見えるのを気づいたと言うことだ。
あいつ、そんなものがあったのか?タトゥー……。どんな形で、いつ、なぜ入れたのか?一瞬に連続した質問の形が完成したが、日光は消えて玄関の扉が閉まった。長くはなかったけど、それでも一緒に暮らした間柄なのに、こんなに別れる時になっていざ気になるところが浮かんだことが、不思議な気分だった。
……本当に出て行けと言ったわけではなかったのに。わざと催眠命令も使わず、ただの八つ当たりに近い言葉だった。ただ、日光の方でも少し熱くなって、しばらくの間に部屋にこもるかと思った。しかし、日光はいつもそうだった。赤見が催眠をかけようがかけまいが、赤見の言葉なら最善を尽くして従おうとする奴だった。赤見の知り合いの中で、赤見に白身魚フライ弁当を買ってくるためにコンビニを5軒も回るような人は、他にいただろうか?いや、そもそも赤見には、日光以外の知り合いと呼べるような人さえいなかった。
赤見は目の前に残像のように残っている日光の背中を思い出した。今すぐにでも追いかけて捕まえるべきなのか?いや、なぜ私が奴を捕まえることまでしなければならないんだ?それは奴が自分で戻ってこなくなったら、催眠から覚めて私を殺すからだ。でも、日光は今後も毎回催眠にかけられると言った。お前はその言葉を信じるのか?信じられないなら、やはり追いかけて……。……普通の人たちはこんな場合どうするんだろう?いや、私と日光を普通の人たちだと判断していいのか?自分が聞くにもみっともない考えが次々と浮かんだ。
めちゃくちゃになった心とは裏腹に、その夜、赤見は何もしなかった。ただ普段通りひろい邸宅を一人で帝王のように占めて、布団をひっくり返しながら少し眠れなかっただけだった。
次の日、『西村真』は出勤しなかった。もしかしたら会うかもしれないと、どんな顔で日光と再び向き合えばいいのか頭を抱えて悩むことに出勤準備の時間を全て費やした赤見は、普段よりもさらに陰気な気配を漂って、自分の席に座った。
決して良い姿ではなかったはずなのに、日光の無断欠勤という興味深い噂を聞き、数人の社員が赤見にさりげなく近づいてきた。普段日光と親しそうな赤見に、日光の私生活に関する断片でも手に入れようとする意図が透けて見えた。赤見はわざと聞こえるように大きくため息をつき、あいつについては何も知らないと一貫して答えた。日光とは妙に絡み合って数週間一緒に過ごしたものの、実際はそれほど深く知り合った関係ではなかったため、とくに嘘でもなかった。
そうして一日中に低気圧のように机に張り付いていた赤見に、二度目に近づいてきた人がいた。小さな体格が潜入に役立ったのか、誰にも気づかずに赤見の机の前まで近づいた空色のワンピースの女の子は、赤見のシャツの袖を掴んで乱暴に引っ張った。
「おじさん。」
ぼんやりと座っていた赤見は、驚いた猫のように椅子から飛び上がりそうになった。そんな頼りない姿に、女の子は眉をひそめ、小さくて、ふっくらしている人差し指を桃色の唇にきっぱりと当てた。
「しーっ!」
「あ、ごめん。」
うっかりして謝りまでした赤見は、女の子の目線に合わせて頭を少し下げた。
「誰? ここの社員の娘か? お母さんかお父さんを迷子にしたの?」
「お母さんかお父さもいない。」
かわいい声で返された冷たい答えに、赤見はまた固まってしまった。
「じ、じゃあ?このおじさんには何の用事があるのかな、おチビちゃん?」
「前に、おじさんと優しいお兄さんと一緒にいるのを見たよ。」
「優しいお兄さん?」
「背が高くてめちゃくちゃかっこいいお兄さん。エレベーターを待ってくれたお兄さん。」
もはやこんなちびっ子まで日光を探しに来るのか。赤見は訳が分からない理由で心がねじ曲がって気分が悪くなった。
「エレベーターの話は分からないけど。西村のことなら、今日は欠勤、だから……会社に来ていないんだ。」
その言葉を聞いた途端、女の子が大きな泣き声を上げ、赤見は完全にパニック状態に陥った。いきなり事務所に響き渡る子供の泣き声に、すべての社員が赤見の方を見た。好奇心とイライラが半々混ざった表情に、赤見の瞳孔をめちゃくちゃに揺れ動いた。
「いや、あの!これは、この子が道に迷ったのか……!私に何か聞きたかったみたいで……!」
誰に向けた言い訳なのかも分からない言葉を空中に片言を呟きながら、赤見はとりあえず何とか子供をなだめようと苦労した。しかし、それが大人の女性の静かな涙だったとしても、止める能力のない赤見が、子供がおいおいと泣くのをちゃんとなだめられるはずがなかった。その未熟な姿と騒がしい泣き声を耐えかねた前の席の小林が駆け寄って子供を抱き上げた。そしてポケットから小さく包装されたチョコレートを一つ取り出し、子供の口にそっと入れた。
「こんにちは、お姉さんの名前は小林凉子です。かわい子ちゃんの名前はなんですか?」
小林が優しく子供に尋ねた。子供はチョコレートを口の中で転がすのに夢中で、頬をパンパンに膨らませながら照れながら答えた。
「山田凪。」
「凪ちゃんはなぜここにいるの?赤田さんと知り合いなの?」
「赤田さんって誰?」
小林は訝しさに満ちた顔で赤見を見上げ、赤見は首を振った。
「私も知らない子です。」
「間違えて来たなら出口まで送ってあげるよ、凪ちゃん。」
すると今度は凪が力強く首を振った。
「お兄ちゃんが……!湊お兄ちゃんが捕まったの。毎週ここに捕まれて来る。お兄ちゃんはここに来るのが本当に本当に嫌だって言ってた。凪と逃げたいと言った。だから、私たちを助けてくれた優しいお兄さん……!西村お兄さんを探して、湊お兄ちゃんを助けをお願いしなきゃ。」
食べていたチョコレートと、早めに抜けてた乳歯のせいで、発音は不正確だったが、言葉の内容は驚くほど筋道を立ててはっきりした主張だった。
この時点で、赤見は何が起こっているのかを把握した。日光が偶然この子を助けて『優しいお兄さん』の称号を手に入れたようだが、他に頼れる場所のないこの子は、新しく知り合った『優しいお兄さん』である日光が、湊という少年を彗星総一郎の吐き気がする『事業』から救ってくれると信じてしまったのだ。赤見は突然疲れてしまい顔を拭いた。日光、あいつはもういなくなっているのに。勝手にこんな仕事を押し付けて。
「うむ、何のことかよくわからないけど、とりあえず私が休憩室まで連れて行きます。」
赤見は自分が面倒な仕事を引き受けたくなくて、小林の言葉に素早く頷きながら女の子を彼女の方へ押しやった。
「おじさんは助けてくれないの? 優しい人の友達は優しい人じゃないの?」
凪が振り返って赤見に尋ねた。全てが間違った質問だ。このあたりには優しい人も友達もいないんだ、おチビちゃん。しかし、そう答えられなかったため、赤見はその質問に何も返さなかった。赤見は、小林が凪の小さな手を握って事務所から出て行く後ろ姿を見つめた。なんとなく最近後ろ姿ばかり見ることになったと思いながら。
まあ、とにかく私とは関係ないことだ。
そう思うつもりだったのに……。
湊という男の子が彗星総一郎と一緒にいるかもしれないと思って上がった最上階で赤見は、日光の本質と直面した。獣?怪物?それを何と表現すればいいのだろう。倒れた老人の上に乗ってクスクス笑いながら血と肉片を掻き分けているその姿は。
最悪。最悪だ。赤見は今、日光の最悪を見ていることを自覚した。日光の最善は、大洗で波を眺めていた穏やかな青年だっら、日光の底は、今、この彗星ビルの最上階で既に死体となった男を殺してまた殺し続けている悪鬼だ。赤見はようやく、自分を狙っている者が誰なのかを確実に知ることになった。あの悪鬼が自分を殺すために隙を伺っている。
その時だった。
ここで終わらせる。それがいい。
唯一に尊敬していた人から捨てられたのだから。もう生き続ける気はない。
うん、ただ。急に会いたい人が思い浮かんだから。
赤見は少年と会話する日光の後頭部を睨みつけた。地獄から来た悪鬼かと思えば、すぐあんなふうに芽吹いたばかりの花のつぼみのように繊細に揺れる姿をさらすのだ。
日光、私はお前が分からない。全く分からない。お前と過ごせばすほど、お前のことについて知らないことばかりが積み重なっていく感じだ。ふと、赤見の家を出る日光の白いTシャツの向こうに浮かぶ黒いタトゥーの痕が思い浮かんだ。それについて聞くのは少しだけでも時間が必要だった。赤見は自分にそう言い訳しながら、おそらく湊であろう少年を催眠で気絶させた。
「ちっ。緊張が解けたのか。」
「私の催眠術のせいだ。」
驚いて振り返る日光の瞳は相変わらずの黒色。その中を全く知ることができないが、知る必要もなく赤見への信頼で満ちびた暗くて深く美しい黒色。
赤見は自分も気づかずに手を差し出した。
「帰ろう。私の家へ。」
『私の家』と強調したのは最後の意地だ。赤見は日光を『私たち』という枠組みの中に収めたくなかった。そうすることはできなかった。まだ日光が怖かった。悪鬼を見たからではない。
赤見は悪鬼を大切に思うことが恐ろしかった。
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