第20話 急に会いたい人が思い浮かんだから。

ハードボイルド・セブン

エピソード3. 彗星

第20話




最上階の下の警備がそれなりに厳しかったため安心したのか、彗星総一郎の個人室へ向かう道はガードが一人もおらずに空っぽだった。


「めっちゃ楽だね。やっぱり私たちがチームなら無敵だもん。私とずっと一緒に働こうよ、マサピ。」

「そうか、そうしようか。」

「何?本気?本当だよね?」

「うん?あ。ごめん。ちょっと考え事していた。」

「マサピ!」


日光は、なぜかどんどん焦燥感に駆られる胸の鼓動を無視して、平静を取り戻そうと努力したけど、足が早くなるのを止めることはできなかった。やがて、ほとんど走っているような足取りで、彗星の個人室の前にたどり着いた日光は、息を大きく息遣いをした。華麗な伝統の文様が刻まれた重厚な扉。このような最新式の建物の最上階にあるには少し皮肉な感じもしたが、むしろ彗星の古い趣味を示すようにも見えた。


「ひまちゃん。後でな。」


日光はひまわりとつながっていた通信機を耳から引き抜いて床に投げ捨てたあと足で踏みつけた。これからのことをひまわりと共有するつもりは最初からなかった。後でひまわりが文句を少し言うだろうが、それはその時になってから聞いてくれればいい。日光は淡々とした表情で扉を開けた。


日光の記憶と夢の中でいつも暗かった院長室とは対照的に、彗星の個人室は目がしみるほど明るかった。扉に向かう三面の壁がすべてガラス窓になっており、東京の街並みが見下ろされる幻想的な景色が日光の目の前に絵のように広がっていた。そしてその絵を汚している二人の高齢の男性。彗星総一郎と、彼の顧客か?一人だと思っていたのにな。まあ、構わないけど。


日光がしばらく光に慣れるまで目を瞬かせている間、高齢の男性たちは豚のようにガーガーと大声を上げた。お前は何者だ?下の階のガードたちをどうして通り抜けたんだ?多分そんな感じの言葉だろう。で、豚の言葉をわざわざ理解する必要があるのか。日光は彼らに近づき、足を逆方向に曲げるようにして膝の関節を蹴り上げた。男たちは悲鳴を上げながら床に倒れた。その和音に合わせて踊るような彼らの痙攣の一つ一つが、高価なカーペットの上に汚い軌跡を残した。


その最中に携帯電話を探して床を手探りしていた彗星の手を透かさずに踏みつけながら、日光はスーツのジャケットのポケットの中から大洗で手に入れたアイスピックを抜き出した。左手のひらに巻き付くアイスピックの木製の柄が、日光の体温に染まってもう温かくなっていた。アイスピックを見た男たちは濁った目を上げ、震え始めた。だ、助けてくれ、金ならいくらでもやる!それとも経営権が欲しいのか?俺の娘、いや、孫娘、孫娘をやるから!君が欲しいものは何でもやるから、どうか助けてくれ!手の中でアイスピックの柄をぐるぐると回していた日光はふと気になって尋ねた。


「孫娘はいくつ?」

「じゅ、14歳だ!可愛くて良い子だよ!君もきっと気に入るだろう!」

「そっか。」


日光が回していた柄を軽く掴んだ。やはりグロックを使うには弾丸がもったいない。そしてたった一発で致命傷を負わせるのもとても残念なことだ。そもそも拷問とは歌みたいなもので、適切な拍子とリズムが必要だ。相手が死なない程度の安全な障害を加えながら、同じく決して気絶させるのもダメだ。そうなるとつまらなくなる。サビで良い音を聞くこともできないという大きな欠点もある。このアイスピックで、テメェらに最高の拷問を味あわせてやる。


日光は倒れていた彗星の胸の上に乗り、その首を片手で掴んで床に固定した。恐怖に震える彗星の泣き声が振動となって日光の手のひらで脈打ったが、日光は当然気にしなかった。逆手に握ったピックの先端を彗星の鎖骨と肩甲骨がかみ合う肩鎖関節に突き刺してそのまま突き破ると、相当良い悲鳴が響き渡った。苦痛に震える体に乗っていても、日光の姿勢は少しも乱れなかった。それは日光の頭の中も同様だった。次は反対側の肩の番。日光は自分が決めた順序をじっくりと思い出しながら、彗星の肩に刺さったピックを一気に引き抜いた。


その瞬間、引き抜かれるピックに追いついて、重力を逆らって空中に舞い散る血しぶきの間から、日光は彗星の机の後ろに隠れていた少年を発見する。田中湊は穏やかな顔に制服を着た姿が、相変わらず日光の幼少期と全く似てなかった。丸くて澄んだ瞳は驚愕と恐怖に浸って泣いていた。日光はその大きな瞳に映る自分の悪鬼のような姿と向き合った。悪鬼がニヤリッと笑った。


だから何?


日光は少年を見つめながらためらいなく彗星の残った肩にアイスピックを突き刺した。


いや、実際は肩かどうかはよく分からない。日光は少年の瞳の中の自分に夢中になっていた。日光は次々とピックを突き上げ、突き刺すのを繰り返した。どこがどう刺さろうと、さらに空振りしても構わなかった。日光はただ少年を見つめながらくすくすと笑った。


ああ、これだ!俺はずっとこんなことをしたかったんだ!全身の皮膚がぞくぞくと熱くなった。赤見先輩の言ったとおりだ。先輩は正しかった。俺は突然モラルが芽生えて、見知らぬ孤児たちを救おうとしたわけではなかった。俺はただ、院長を殺したかっただけだ。


そしてあの少年は俺だ。俺の役割を引き受けて幼少期を生きている。だからお前だけは俺を見てくれなきゃ。俺のために、俺が院長を何度でも殺す姿を最後まで見届けてくれなきゃ。


もう彗星からはアイスピックを刺すたびにズボッとする摩擦音しか聞こえなかった。歌は終わった。踊りも終わった。日光は激しく興奮し、はあはあと吐息をついていた。猛烈な炎が呼吸の代わりに顎の先まで噴き上がった。日光は燃え盛っていた。今は細い腕を院長の大きな手に掴まれ、院長室にずるずると引き込まれていく小さな正義が、ついに怒りという感情に気づく時間なのだ。なぜ今までこんなことを考えなかったのか、むしろ不思議に思うほどだった。胸は満足感で満たされていた。新しい感覚は悪くなかった。ただ、この熱気をどこかにずっと噴出続けることができたら、もっとましだと思った。とても、最高に、気持ち良さそうだった。


日光は真っ赤に充血した目で、他の豚をきょろきょろさがしていた。彗星の顧客は日光が彗星に夢中になっている間に、折れた足を引きずりながら何とか逃げようとしていたようだ。扉までたどり着く前に、目の前で起きた殺人に精神的な衝撃を受けて気を失ったようだが。日光は眉をひそめながら、豚の頭を足で叩いた。


「おい、起きろ。テメェはまだ始まっていないだろ。」


これまで一言もなかった日光がぶつぶつ文句を言うと、それが起爆剤にもなったのか、いきなり少年がわいわいと泣き始めた。うるさいな。お前が俺ならもっと喜んで、楽しめよ。一生待っていた瞬間だろ。そんなにどこでもいる平凡な子供たちみたいにぐずぐずしないで、この狂おしいほどの幸せを……。


幸せ?俺は今、幸せなのか?


日光はカーペットの上に立ち、自分だけの想念に浸って一瞬迷っていたら、カチャッとする重い金属音が少年から聞こえてきた。少年の方を見た日光は、思わず、あははっと空笑いをついた。少年は小さな手に似合わない拳銃を握りしめ、日光を目当てにしていた。白く青ざめた幼い顔に涙がベタベタとついているまま、すすり泣いていたけど、少年は決して手を震えなかった。


「お前、なかなかやるな。それは彗星総一郎の拳銃か?ここへ何回呼ばれてきた間に、それがその机の引き出しにあることを把握したんだろ?素晴らしい、素晴らしい、湊君。」


日光は少年の名前を呼んだ。この少年は結局、俺ではなかった。こいつは、田中湊は、俺よりも優れた存在だ。自分自身を守る方法を探して、着実に実行している。自分よりも早く、より優秀な殺し屋になるかもしれないと、日光は考えた。日光は苦笑いした。


「グロック18か。ちょうど俺が使っているモデルだ。これってロマンチックな運命だな。」


血と肉片が付いたアイスピックをジャケットの中に入れて、日光は1秒間悩んだ。あの素人の殺し屋が撃つのを迷っている間に、胸の中にある自分の銃を取り出して即発砲すれば、対峙状況は簡単に終了する。実はそうだから日光は今、特に脅威を感じていなかった。しかし日光は胸の中から何も取り出さなかった。空の手のひらを空中に掲げた日光は、湊に向かって一歩近づいた。


「さあ。」

「……はっ。」

「俺を撃て、田中湊。俺の名前は日光正義だ。終わるのであれば、今、お前に終わらせたくなった。」


お前は知らないかもしれないが、業界の伝説だった元殺し屋を殺せる珍しい機会だから、存分に味わえ。湊はもはや息遣いすら聞こえないほど固まって、日光は目尻を下げ、優しく微笑みながら湊に大股に歩いて行った。そして湊のすぐ前で片膝をつき、湊が握る銃の銃口を自分の心臓のあたりに当てた。引き金にかかった湊の小さく柔らかい指の間に、自分の荒れた指を押し込みながら日光が言った。


「ここで終わらせる。それがいい。俺は今生涯をかけた復讐を果たした気持ちで……。唯一に尊敬していた人から捨てられたのだから。もう生き続ける気はない。何も期待できない。だから罪悪感は持たないで。これは一種の自殺だ。」


日光は湊の揺れる瞳の中の自分を再び見つめ合った。湊の瞳は暗かったが、それ以上に澄んで透き通っていた。まるで大洗サンビーチで海を眺めていた時と似たような感じだった。あ。先輩ともう一度あの海に行けたら。怒りが薄れ、その場をトゲが刺さった懐かしさが埋めた。


「兄さん、何で……?何で泣いているの……?」

「うん、ただ。急に会いたい人が思い浮かんだから。」


日光は正直に答えた。もう嘘や芝居をする理由も、余裕もなかった。湊が銃を下ろそうとしたが、日光が力強くそれを止めた。俺は今、これが必要なんだ。だから、坊や、ごめん。


ごめんって?何で?


「兄さん、僕これ、や、やりたくなくなっちゃった。」

「それでもやって。頼む。お前に死にたい。お前は俺みたいだから。俺よりマシだけど。」

「兄さん、兄さんを、こ、殺すつもりはないんです。ただ、兄さんがあのおじいさんを殺したことが怖くて……。だからそうしたんです。離してください。兄さんはエ、エレベーターを止めてくれた優しい兄さんじゃないですか。」

「ははは……。」


せいぜいそんなことで俺が優しい人間になっても良いのか。呆れた日光の手から力が抜けると、湊はすぐに後ずさった。そしてその場気絶してしまった。


「ちっ。緊張が解けたのか。」

「私の催眠術のせいだ。」


突然に聞こえてきた、酷いくらい耳に聞き馴染みすぎる声に日光はびくっと振り返った。ネクタイのない白いシャツに灰色のスーツのズボンを履いた赤見が、ズボンのポケットに両手を突っ込み、傲慢なポーズで立っていた。赤見は首を斜めに傾げた。


「幽霊でも見たような表情だな。夜叉だったか鬼だったか、実際、鬼神の名前をコードネームに使っていたのはお前の方じゃないか?日光。」

「何度も言いましたけど修羅です。そして修羅は戦いの神で、鬼神のような概念ではないです。」

「口先だけ。お前と、……彗星に関することは、あの子供の記憶から全て消した。これから平凡に生きていけるだろう。」

「……そうですか。」


日光は地面を見ながら呟いた。つま先でカーペットを擦ると、カーペットのきめのように跡が残ったり消えたりした。やはり大洗の砂浜が思い浮かんだ。あの時は良かったのに、今はあえて先輩に近づくことすらできない。


「催眠をかけに来たんですか? 、今日午後10時には先輩の家に帰るつもりだっ……。」

「『唯一に尊敬していた人から捨てられたのだから。もう生き続ける気はない』と聞いたんだから、嘘つくな。嘘は嫌いだ。」


日光は口を閉じた。嘘だと言うなら、この状況が嘘のようだ。三面のガラス窓から東京の景色が透明に見下ろされる高級な部屋で、豚二匹と子供ひとりが倒れていて、その血と死が乱れ飛ぶ生地獄の中、先輩と俺が立っている。


「日光、私を見て。」


強制性はなかったが、なぜか拒絶できない命令に、日光は頭を上げて赤見と目を合わせた。赤見の目が赤く輝いていた。日光は浅い息を唸るように流した。熱かった怒りも、刺すような懐かしさも全て消え去り、ただ赤見先輩への甘い敬愛が胸いっぱい満ち溢れるようにする。しばらくぼんやりとその感情に身を任せていた日光に、赤見が唇をもたもたした。


「その、だから、だから、だから、だから……。」


日光はわははと笑った。


「何ですか、先輩?他の人たちは知らないけど、催眠術にかかった俺の前では緊張したことなかったのに。何でもいいから気軽く話てください。」


赤見は複雑な心の中をまだまとめてないまま、顔にそのまま表しながら日光にゆっくりと近づいた。そしてちょっとためらった後、いきなり左手を差し出した。


「和解しよう。これは握手の要請だ。お前は左利きだから左手で。」


日光は目を瞬かせた。まだ涙の粒が垂れ下がっている長いまつ毛から頬を伝ってぽろっと滴り落ちた。日光は左手を差し出し、赤見の手を取り合った。先輩の手はポケットに入っていたからか、予想外に温かかった。自分より小さく、細く、骨ばった手を強く握りしめた。


「痛いだろ。」

「夢じゃないんですね。」

「確認したいなら自分の体でやれ。お前の頬を叩け。」


赤見は不機嫌そうに催眠術をかけて命令した。日光は残った手で自分の頬を叩きながら、ヒヒと笑った。


「俺が左利きなのはどうやって気づいたんですか? 箸使いも歯磨きも字を書くのも全部右手でやってるんですけど。」

「見ればわかる。お前は両利きに見えても、重要だと思っていることは左手でやる。私に水を渡す時とか。運転中にハンドルを回す時とか。……さっきのように針を持つ時とか。」


日光はびくっとした。


「見ました?」

「全部。完全に夢中になっていた?お前が正気に戻ったら、私がどうなるか、今ならはっきりわかった。」

「多分、先輩にはもっとひどいでしょう。」

「はあ。」


赤見はしばらく手を握ったままいたあと、握手を解いた。


「でも、お前が左利きだと気づくくらいに、今までお前を観てきていたんだ。何か個人的な理由があるんだ、そうだろ?それが何なのかは分からないけど。」


日光は沈黙した。みっともなく顔に残った水気を袖で拭いている間、赤見が言った。


「帰ろう。私の家へ。」


日光は頷きながら左手で拳を握った。そうすれば先輩の手の温もりをもう少しでも長く保つことできると思ったからだ。

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