第15話 その事実を決して忘れてはいけない。
ハードボイルド・セブン
エピソード3. 彗星
第15話
「お昼ご飯を食べに行くんですか?西村さん。」
「あ、はいはい。」
「ああ、西村さんって今日も顔が輝いていますね。お昼のメニューは何に決めたんですか?」
「今日はそばです。夏はやっぱりそばですね。」
「そばもいいな。佐渡さん、私たちもそばを食べに行かない?」
「あ、ごめんだけど無理。鈴木さん、私は今日は完全に牛丼の気分なんだから。でも西村さん、私たちの名前を忘れたから省略してるんじゃないですか?」
「あら、もう入社して一週間目なのに、本当にそうなのかな?」
「そんなはずないです。どんなに馬鹿な男でも、こんな美人の方々の名前を忘れるわけないですよ。美智子さん、康子さん。」
「西村さんたら!」
「よく言うね!」
「では、午後勤務中にまたお会いしましょう。」
「そうね。礼儀正しく。私に娘がいたら、まさに婿に迎えたいのに、惜しいわ。」
「長男がもう小学生なのに何言ってるの? あ、赤田さんもそばを美味しく召し上がって。」
「はい……。」
ロビーに響く明るい笑い声と共に、佐渡と鈴木が遠ざかっていった。赤見はもしかして自分が催眠術師としての能力だけでなく、透明人間としての才能まで備えているのかという疑問を抱きながら首を振った。もちろん、自分の存在感が薄いことは既に知っていた。それに対して特に後悔も感じていなかった。ただ……。
「日光、いや、西村。やっぱりお前は目立ちすぎる。」
「はっ?!」
日光はエレベーターの下降ボタンを連続でパタパタと押しながら、赤見を振り返り、変なことを聞いたような表情をした。
「そりゃ当たり前でしょ?赤田先輩、先輩はテレビも見ないし、インターネットも使わないし、家で新聞と本ばかり読んでるから知らないかもしれませんけど、俺みたいなイケメンは絶対珍しいんです。俺はホテルで言えば5つ星級ですよ。」
「褒め言葉じゃないから、生意気なことを言うな。お前の存在自体が潜入の妨げになるという意味だ。」
またホテルを例に挙げるのか。ホテルが好きなのか?赤見はいきなり日光が自分を何つ星級のホテルに例えるのか気になったが、あえて尋ねなかった。
「ともかく、これが諜報活動だということを忘れないように。」
「まあ、潜入や諜報活動と言っても、言葉だけ立派なものじゃないですか。先輩の催眠術で出入りも自由だし、後で依頼人に報告するための平凡なアリバイを作るための見せかけで数週間働くふりをしているだけなのに。」
薄い唇を尖らせて、文句ばかり言う不機嫌な態度に、赤見は何か注意しようとしたが、その瞬間エレベーターのドアが開き、日光も怒られる予感がしたのか素早くその中へ飛び込んでしまった。
「早く乗って、先輩!今日は暑いからそば屋が混むですよ。俺は3杯注文するから、早く行かなきゃいけないです。」
赤見はため息をついてエレベーターに乗り込んだ。素早く1階のボタンを押した後、先ほどロビーでやったように、閉まるボタンを力強く連打する日光の指を見ながら、赤見は自分の考えに没頭した。
彗星インターナショナル。2000年の時点では(旧)彗星商事だったこの企業は、アメリカと東アジアを主要な市場として自動車輸出を専門とする貿易会社だ。1980年代初頭、富村だった東京都千代田区でも当時最も裕福な資産家として知られていた彗星総一郎によって立派に設立され、40年余りが経過した現在、時価総額400兆円を軽々と超える大規模企業に成長した。元々、優良な赤ちゃんが相撲取りに成長したようなものだ。今年でちょうど70歳となった彗星総一郎は、現在までもこの会社の最高経営者の座を堂々と占めていた。
赤見の依頼人はこの会社、彗星インターナショナルのライバル企業である新興企業の海王グローバルの最大株主。両社は自動車を主要商品として輸出している点、アメリカと東アジアを取引相手としている点など共通点で多かった。要するに、後発企業の海王グローバルでは対外的に産業スパイである赤見に、彗星インターナショナルが既に握りしめている海外バイヤーの情報を盗み出してくれることを望んでいた。
赤見は費用の交渉を一切行わずに海王グローバルが提示した価格でこの案件を引き受けることにした。金なら十分に稼いでいた赤見が、まだこのような面倒な仕事をしている理由は、ただ何もなく過ごした方が仕事をするより退屈だったからだ。そして、お金持ちを嘲笑する機会をわざわざ断る必要もないし。
赤見は、自身も経済的自由を獲得していたにもかかわらず、お金持ちという存在が気に入らなかった。それはおそらく出発点が大きく異なっていたからだ。
両親と過ごした最後の年は、赤見が5歳だった。かすかな5歳以前の記憶をたどってみると、性格が落ち着いていて顔の線が繊細な父親と、微笑みから堂々とした品格が滲み出る母親の姿がぼんやりと浮かび上がる。
父親は多分公務員。職務や階級は今では分からないが、いつもきちんとしたスーツを着ていて、何より夏休みの時期に母親と共に市役所まで父親を見送った日があった。見送りのことよりも、帰りの道で母親が『見送りに来てくれたのが偉いだ』と初めて飴を二つ食べさせてくれたので記憶に残っている。チョコレート味とイチゴ味の飴を口の中に同時に入れて転がしていた赤見は、今でも『幸せ』という言葉を見たり聞いたりすると、その甘酸っぱい味が舌に広がるような感覚がした。
母親の職業は確かに知っていた。母親は教師だった。教科は文学。枕元で5歳の子供が理解するにはやや難解な長編小説を読む静かな母親の声が今でも耳に響き渡った。母親の声が美しかった。あまりにも、あまりにも……。
……ともかく、その頃までは両親の職業が安定していたため、生活はそれほど困窮していなかった。問題はその後だった。孤児になった後、初めて割り当てられた保育園は最悪だった。赤見は福祉格差という概念を6歳の誕生日を迎える前に体得した。
それでも赤見は生き残った。赤見は成功した。うごめく虫で覆われた古びた二段ベッド六つ、隙間なく詰め込まれた鶏小屋のような部屋から抜け出したこと以上に、赤見は頂点に達した。高い実績を上げようとして、その意図を隠しきれない仲介業者に、部屋の眺めやオプションなどまったく知らないし興味もないから最も高い物件を現金で購入すると宣言するほどそうだった。
でも、赤見の胸の中には、自力で成功した自身に感動する気持ちなどなかった。そもそも赤見も生まれ持った才能である催眠術を利用して、そんなお金持ちたちに精神的な暴力を振るいながら勢力を拡大したに過ぎない。厳密に言えば、ドーピングをした相撲取りのようなのかな。堂々な仕事ではないレベルではなく、事実、日本には自分を制裁する法律がないため、今までに問題なく社会に属するだけで、犯罪者と変わらないという自覚はあった。誇れるわけにはならない。だけど、今さらやめるつもりもない。
しかし、日光は違った。人の命を直接奪いながら、日光は一切の罪悪感を感じていないように見える。むしろ言葉を聞くと、人を傷つける自分の力と技術に誇りさえ持っているようだ。なぜそうできるのか?たったそれだけと言うならおかしいかもしれないが、いずれにせよ、人を何人か殺した記憶くらいでは日光を苦しめることはできなかった。日光を苦しめることができるのは、今現在ではただ赤見の催眠から解放されることだけだ。
この部分が難しい。赤見は日光が怖かった。催眠が解ければ自分を殺そうとする殺し屋を恐れるのは当然だ。しかし日光はその事実と同時に赤見の忠実な後輩になるために全力で努力する奴だった。日光はいつも赤見の表情を細かく観察していた。自分の気分よりも赤見を優先する気持ちが奴の全身から感じられた。赤見が低気圧の時は適切な冗談で雰囲気を和らげ、赤見が稀に機嫌が良い時は、日光自身がより楽しそうに喜んでいた。チョコレート味とイチゴ味の飴を一度に口に放り込んで頬を膨らませる5歳の赤見のように。まさにそんな5歳の子供のように喜んでいた。
その忠実な幸せが。大洗の海岸で一緒に見守った波のように、自分勝手に押し寄せる笑い顔が。肋骨の奥を直接ノックするような低い笑い声が。鋭く脅威的な目つきの中でも、優しく近づいてくる黒くて小さな二つの丸が。
私を親愛する他人の体温。重さ。脈拍。そんなものを感じたのがあまりにも久しぶりだからだろうか。難しい。辛い。困っる。やっぱり嫌だ。日光を警戒すること、信じないこと、だから、だから、ほぼ一生をかけて実行しようと決めたそのことは……。
「先輩、食べ終わったんですか? それだけ食べてもいいですか?」
そば屋のテーブルの向かいの席から日光が尋ねた。いつの間にか赤見の向かいには当然のように日光が座っていた。赤見はそばが数本残った箸を手に持ち、一瞬固まったがすぐに我に返った。
「食べ終わった。事務所に戻ろう。」
日光はほとんど食べていない赤見を見て少し不満そうだったが、黙って頷き席を立った。赤見は半分以上残ったそばを見つめた。私はこれを、美味しく楽しむことができない。お前をそのまま受け入れることができない。日光は本当の後輩ではない。催眠術にかかった自分の犠牲者にすぎない。
その事実を決して忘れてはいけない。
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