第14話 どうだとしても……。
ハードボイルド・セブン
エピソード2. 大洗
第14話
7月8日の月曜日! この日をどれだけ待っていたことか!
日光は部屋の片隅に寄りかかった全身鏡に自分の姿をあちこち映しながら身だしなみをチェックした。顔はいつも通り完璧で、短く整えた髪も、乱れたところ一つなく整っている。シミやシワ一つない清潔な白いシャツに、プロのような印象を与えつつも動きやすい夏用のツーピーススーツセットもきれいだ。玄関の靴箱で待っているモンクストラップデザインの靴も、昨日朝から手首が痛くなるまで磨いておいた。
最後に、太い関節の長い指を滑らかに動かし、ネクタイを結ぶ。結び目の種類は、幅の狭いナロータイに合うハーフウィンザーノットで、格式を損なわずにスリムなラインが日光ウとよく似合った。
日光は結ばれたネクタイを見てにやりと笑って部屋を出た。
部屋とつながる長い廊下を通り抜けると、一人のために建てられたとは思えないほど広くて天井も圧倒的の高いリビングが現れる。日光は今日も反射光をきらめかせながら自分を歓迎する壮麗なシャンデリアを飽き飽きした目で仰ぎ見た。
日光が赤見の家に滞在してから一週間ほどが経ったが、日光はまだこの大邸宅に完全に慣れることができなかった。まるでアクアリウムの規模の水槽全体を一人で使っているイワシになったような気分かな。家というより、むしろ博物館や美術館のような種類の建物に近かい。日光も殺し屋として名を馳せた後、比較的裕福に暮らしてきたがこれほど贅沢な生活をしたことはなかった。お金があるからそうなのかと思っていたが、これはあまりにも過剰ではないか。
日光はリビングの真ん中に置かれた大きなソファにぼんやりと座っていた。そのまま横になりたい気持ちもあったが、そうすれば苦労してアイロンをかけたスーツがシワになるだろう。退屈だな……。
現在の時刻は午前10時46分。午前6時きっかりに起床した日光はもう自宅から電車で1駅ほどの距離にあるトレーニングジムまでジョギングしで運動を済ませてきた。関節を傷めたり筋肉を酷使しないよう注意して体を鍛え、シャワーも念入りに浴びた。栄養と水分補給のため選んだ朝食のメニューはチキンサンドイッチ5個とイオン飲料2本。胃に十分な食事を摂った後、次は熱いブラックコーヒーで頭を完全に覚醒させる。最後に預けられていた保育園から脱走するように独立して以来にずっと守ってきた朝のルーティンだった。
一方、赤見先輩は……。日光は眉をひそめ、顎を掻いた。日光がこれまで観察してきた赤見の生活パターンは、パターンという言葉を使うのも疑問に思えるほど不規則だった。赤見にとって時計やカレンダーという物は意味のないもののように見えた。赤見の目の下に濃い影を落としたクマと、血の気のない暗い肌色を見た時から察していたが、ここまでひどいとは思わなかった。赤見はいつでも起きて、いつでも寝て、食事も決まった時間にせず、その時の食欲に従って何でも出前にして食べていた。その食欲というものも、本当に生き物のものなのか疑わしいほど薄弱で、赤見は欠かさず飲むカフェラテ以外は、ほとんど何も食べずに数日を過ごすこともあった。
ついに我慢できなくなった日光が、一口で食べやすいミニおにぎりを用意して押し付けた日もあったが、その親切な配慮が面倒くさかったのか、赤見は日光にそのおにぎりを持って残りの一日中を部屋に入ってから出て来るなっと催眠命令を下し、監禁した。その事件以降、日光は赤見の乱れた生活に口出ししなくなった。日光は先輩を尊敬はしていたが、本当にづるい畜生めだと考えていた。
そのため、日光は赤見が低血圧で起き上がり、スリッパを引きずりながらよろよろと歩いて出てくるまで、黙ってて待っていた。日光は柔らかいシルクのネクタイの端をいじり始めた。ネクタイ、早く見せたいのに。仕事の日まで寝坊するなんて、先輩らしいと言わなきゃいけないのかな。
赤見の公的なスケジュールは、赤見の生活パターンと同じように不規則に進んでいた。日光が赤見から聞いたところによると、赤見が情報屋として仕事を始めた当初は、自分が金が必要だと判断したたびに、忙しく著名人の秘密を集めて脅迫を繰り返していたそうだ。
それから5年後、赤見は現在持っている財産の1/3程度の経済力を築き上げた。まさに金を鍬で掘るように集めたようなものだった。赤見は特に真面目なタイプでもなく、ある程度の高額が貯まると、国内で一流とされるファンドマネージャー数人に催眠術をかけて、自分が集めたお金の一部を預けて投資を命じた。ファンドマネージャーたちは赤見が誰なのかも知らず、赤見のために昼夜を問わず働いた。
そして現在。お金が余りすぎてむしろ興味を失った赤見は一日一日を無意味に浪費し、時間を潰していた。
殺人なんか何でしなければならなかったのか。催眠術さえあれば、日本の資産家の一員として堂々と名を連ねられたのに。日光は少し馬鹿になったような気分だった。
それでも今日は、7月の第2週が始まる日だけは赤見にもきちんとした任務がある。赤見は催眠術師としての正体を隠していたため、表向きは企業に潜入して高位幹部の情報を収集するという設定を掲げていた。つまり、赤見は一種の産業スパイだった。そのため、個人的な用事ではなくても、時々他の企業から依頼を受けてその企業のライバル企業に潜入する任務を任されることがあった。
「お前が一緒に行くって?」
数日前、日光が同行を提案した時、赤見はかなり戸惑った様子だった。
「まあ、はい。俺、もう殺し屋の仕事も辞めたし、別にやることもないじゃないですか。」
「暇だからついてくるって、中学生の職場体験学習でもするつもりか。」
「俺学校行ってないの知ってるのに痛いところ突くのですか?まあ、いいですよ。今回先輩が言ったあの職場体験学習って?それをやりましょう。俺は関係ないです。」
「私には関係ある。私の仕事は遊びなんかじゃないんだ。」
「ああ、お願いです。先輩が催眠術師だとしても、仕事中に危険な状況くらいあったでしょう?いずれにせよ、先輩は物理的な部分が弱い。その部分を俺が完璧に補えできるのに?業界トップの実力の元殺し屋が警護してくれるなんて、安心じゃないですか?」
「必要ない。警護なんて。お前がついてきたらきっと面倒くさいことを聞きたがるだけだろう……。」
会話はそんな感じで支離滅裂に続いたが、結局二人は同行することにした。日光はよくは知らないが、赤見がこれまで催眠術を使って仕事をする中で、肉体的に困った経験が一度はあったに違いないと推測した。鋭い観察力の日光は、『危険』という言葉聞いた途端、揺れる赤見の瞳を見逃さなかった。日光はその日赤見を執拗に迫り、『赤見のガード』という役職を引き出した。
先輩のガードだなんて、聞くだけで胸が熱くなる言葉だ。日光はいじっていたネクタイを無意識に強く握りしめ、しわができるかもしれないと驚いて叫びながら振り払った。
「……朝から何をしているんだ。」
「あ、先輩!起きましたね!」
日光は急いでキッチンへ向かった。アイランドテーブルの上にコールドサーモンサンドイッチとレモン水を出した。赤見は黙ってテーブルに椅子を引き寄せて座った。
「今日は何も言わずに食べてくれますか?」
「うるさい。空腹に催眠術を使うと、すぐに疲れて後で面倒になる。」
日光は赤見の隣に座って赤見がサーモンサンドイッチを小さくかじって噛む様子をにっこりと笑いながら眺めた。赤見の片方の眉毛が少し上がった。
「何?」
「先輩、俺、今日何か変わったことないですか?」
赤見が少しだけインターネット文化に馴染んでいれば『彼女か?』と指摘した発言だったが、赤見はそんな流行とは無縁だったため、ただ眉をひそめて日光をじっと見つめるだけだった。
「さあ。何が変わったんだ?久しぶりにスーツを着たか。仕事に行くから浮かれてるんだろ。興奮してミスするなよ。」
「あ、そういうのじゃなくて。例えば、色とか?」
「色?」
赤見はレモン水をひと口飲みながら、サーモンを噛みしめて飲み込み、首を傾げた。
「ああ。赤いネクタイだね。」
「そうですよ!どうですか?」
赤見は目を瞬かせた。
「どうだとしても……。」
日光は席から立ち上がり、スーツのジャケットの襟部分を掴んでパタパタと払いながら、様々なポーズを取ってみせた。ファッションモデルのような優雅な姿だったが、当然ながら赤見はそんな日光を見て、不思議さ以外は何も思わなかった。日光はそんな赤見を意に介さず、威風堂々とした笑みを浮かべながら、長々と説明を始めた。
「ファッションに夢中なひまわりが、俺にワイン色が似合うからどうか着てくれといつも懇願するように頼んでいたんです。あ、だからこれもひまわりがプレゼントとして押し付けたものなんです。でもワイン色は特に俺の好みではないんですよ。そんな派手な色は少し抵抗があるんです。あえて言うなら俺は無彩色派なんです。でもちょうど新しい職場も見つかったし。何か変化が必要な時期かもしれないし。だから赤見先輩の名前から取った赤いアイテムでワイン色のネクタイを締めてみたんです。つまり、先輩と俺の絆を表現したってところです。どうですか?」
二度目の『どうですか?』だ。言葉を終え、明らかに期待を込めた目で見つめる日光を、赤見は少し目をそらしたくなった。それでも、どれだけ社交的ではない赤見でもこんな状況での適切な答えくらいは知っていた。赤見は答えを先延ばしにしたい気持ちから、サーモンを少しゆっくりとかじり、やがて聞こえるような小さな声で答えた。
「似合ってるね。」
日光は真夏のように明るく笑った。
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