第13話 もちろん、全部愚か者の妄想に過ぎない。

ハードボイルド・セブン

エピソード2. 大洗

第13話




ガラス戸が開き、バランスの取れた体にスリーピーススーツを着こなした長身の男が、暗い外からカフェの中に入ってきた。危険なほど鋭い目つきが、逆にカリスマ的な魅力として感じられる美男子だった。


男性は確かに洗練されたスタイルだったが、過剰に威張った服装ではなかった。スーツという典型的なシンプルさの中に、男だけの確固たる魅力が垣間見えた。躊躇のない歩みや余裕のある姿勢も極めて自然だった。当然ながら、性別を問わずカフェ内のほぼすべての客の感嘆と羨望が混じった視線が男に集まった。男も明らかにそのスポットライトを浴びていることを気づいていたが、彼は特に負担に感じる様子ではなかった。男は特別な努力もせずに空間の雰囲気を圧倒する自身の優越性に慣れているようだった。おそらくあの男は一生、そうやって生きてきたはずだ。


つまり、赤見の催眠術にかかる前の日光正義という男のことだ。


日光が近づくにつれ赤見は日光の短く整った前髪の下から、長い眉毛と形の良い額がすっきりとした姿を見渡し、その額に再び指を弾いてみたいと思った。赤見は一日の半分以上を日光が現れるのを待つために退屈に無駄に過ごしてしまったのに、あの自信満々の笑みを浮かべるのんきそうな顔を眺めていると、イラっと怒りが込み上げてきた。


「こんばんは、先輩!すぐに来ようと思っていたんですが、途中で片付けるべき用事がたくさんあって少し遅れてしまいました。史上最悪に汚く仕事を処理してしまってですね。証拠が残ると困るから現場も片付けて、ひまちゃんの手伝いも受けられなくなったからCCTVも自分で処理しました。家に寄って服も着替えないといけなかったし、あ、だから電話をかけてくださったのに気づけなかっ……。」

「お前は私を馬鹿だと思ってるのか?営業終了の5分前に到着したのを少し遅れたっと言わない。そしてお前は私の奴隷同然なのに、他の用事だと?家に寄っだと?少し付き合ったからって、お前が本当の後輩だと思ってるのか?勘違いするな、生意気な奴。」


日光が赤見の向かいの椅子に座ろうとした瞬間、赤見はテーブルを蹴り倒して立ち上がりながら非難の言葉を浴びせた。赤見はそのままカフェの外へ出て、暗くなった夜の街を構わず突き進んで歩いた。日光は赤見の悪口に傷つくよりも、普段より冷静でない赤見の口調と態度に戸惑い、ただ赤見の後を追った。


「先輩、もしかして早めに出てきたんですか?時間を決めない状況でしたけど、とにかく場所だけは決まっていたから、遅くても大丈夫だったのに。俺が先にきて待っていても会えますよね。俺も当然に営業時間が終わるまで待つつもりでした。先輩なら絶対に夜遅くに出るだろうと思っていたから……。まあ、どれくらい待ったんですか?まさか俺が心配でカフェの開店時間から待っていたわけじゃないでしょう?」


最後の言葉は軽い冗談だったが、赤見はパサパサした髪が後頭部を覆い、黒い後頭部だけを見せるだけで返答しなかった。は? 日光が息を漏らす音に赤見の眉間がきつく寄せられた。いつからか日光の靴音が聞こえなくなったので赤見もその場に立ち止まった。


赤見は躊躇った。後ろを振り返りたくなかった。振り返れば負けるようだ、そんな幼稚な意地が湧き上がった。なら、このまま置いていけばいいじゃないか。そうすれば済むのに、なぜか足が重い。


渋谷の繁華街の夜の街は、調和を保とうとする配慮など微塵もないかのように、お互いに自分だけを主張する色とりどりの看板で騒がしかった。赤見はその方が良いと常に満足してきた。それがこの大都市の唯一の利点ではないか?そうではないか?誰もが誰とも結びつく意志がなく、一歩も引かずに振り返るつもりもないのなら、自分もただその利己的な看板の一つとして平凡に存在できた。他の誰とも混ざれない醜い孤独を非難されることもなかった。


「お酒でも飲みますか?」


いつからか床に垂れ下がっていた赤見の頭が、突然跳ね上がった。日光はいつの間にか赤見の隣に近づき、大きな手を丸めて握り、酒杯を回す真似をしていた。


「突然何の話か?」

「時間も遅くなったしお酒一杯しましょう。ここから反対方向に少し行けば、ひまちゃんに時々連れて行かれるバーがあるんです。そいつの趣味が厳格だから、そのバーは清潔で酒の味も良いんですよ。ホテルで言えば星4つくらい?正直、俺は古い店で飲む温かい日本酒派なんですけどね。でも先輩は甘いのが好きですよね?シロップをたっぷり入れたカフェラテしか飲まないし、カルトッチョはセロリだけ残して。甘いのは好きだけど苦いのは嫌いなんだなと思いました。あそこはカクテルのバーだから甘いお酒もあるし、先輩も気に入ると思いますよ? 俺が払います。」

「……何言ってるんだ。なぜ一緒に酒を飲まなければならないんだ?」


まだ固い態度を取る赤見を見下ろしながら、日光はこの要領のない男が少し可哀想に思えた。


ごめんだけどさっき全部気づいてしまったんだ。先輩は実は俺のことを嫌いじゃない。むしろ早く会いたくて朝早くカフェに来て、この時間までずっと待っていた。だから先輩はやっぱり俺を殺せないんだ。本当に殺すつもりなんて最初からなかったんだろう。ただ状況に流されて振る舞うふりをすれば、その貧相な自尊心を守りながら俺と付き合えるから。だから俺についてきてあんなにボコボコにされてもずっと俺のそばにいたんだ。涙まで直接拭いてくれながら。


でも俺も馬鹿じゃないから、それが俺という存在への個人的な好意じゃないことは分かってる。先輩はただ誰でもいいからそばにいてくれる他人を求めてるだけなんだ。だから俺に向けたその目には、虚しさしか映っていなかったんだ。


明らかにも哀れなこの殻の隙間を少しだけ掘り下げるべきタイミングなのかどうか、日光は一瞬迷った。


先輩が他の人だったら簡単だったのに。他の人たちと同じように覗き込み、全てを把握し、肉体という表面など砕けてしまうほど無限に近づき、傷つけてもそれを喜んで受け入れるほど俺を見つめるようにして、もはや何にも関係なくなるほど楽しめたなら良かったのに。


ああ、しかし先輩はそんな種類の人間ではない。一緒に真っ黒に消尽するまで愉快に燃え上がるような炎ではない。先輩は氷だった。繊細で、陰鬱で、弱く、臆病だ。その内側を知りたがって壊してしまえば、そのまま元に戻せないほど崩れてしまうような気がします。先輩という人。


日光は注意しなければならない。


「俺がなぜ家に寄ったのかというと。」

「今さら言い訳を聞きたくない。」

「なら、俺一人で話すから、聞くか聞かないかは先輩の自由にしてください。ともかく、俺は家を処分して来ました。」

「何? なぜ……。」

「今回の別れ旅行の件、急ぎすぎた計画だったから、後から考えると未熟な点が多かったんですよ。俺は自殺者として分類されるべきだから、事前に身辺整理をした痕跡を残しておくべきですよね?だから家主に連絡して、まあ。残った財産も整理しました。ついでに保育園に寄付したんですが、それはただ先輩と大洗から話したことが思い出されたからです。俺たち二人とも特に良い環境で育ったわけじゃなかったですし。殺し屋がこんなことを言うと笑われるかもしれないけど、子供たちは良いところで育ってほしいです。俺がどれだけ苦労したからって、他の人までそうすべきだとは思わないです。」


赤見はようやく日光をまっすぐ見た。安物のネオンサインから漏れ出る不思議なピンクの光がぼんやりと点滅する中、日光が着ていた白いシャツの襟に傷が目立った。紫色のあざが間違って飛び散ったようなシミが広がるその首を見て、赤見はその中で脈打っている日光の命を想像した。涙が蝋燭の蝋のように滴り落ちてきた拳を握った手の甲と、その皮膚の下で鼓動する青い血管が思い出された。日光はやはり、生き生きと生きている。赤見は今の日光を形作るすべての色に目がしみる。痛い。


日光は依然としてまるで催眠術について何も知らないかのように、無防備に目を合わせ続ける。鋭い目つきの中に、恐ろしいほど鮮明な黒い瞳が赤見の胸に勝手に寄り抱かれてくる。


赤見は幼い頃から魂の存在を信じていなかった。自分の催眠術に惑わされる脳というつまらない器官とかに魂のような高次元の概念を押し付ける人間たちを心から嘲笑ってきた。しかし、もしそんなものが存在するなら、そんなものがこの世界に本当に存在するなら、カフェラテをこぼした横断歩道を通り、日光の前を立ちはだかったあの瞬間の間、自分がそれを創造して日光に手渡したのではないかと思った。


もちろん、全部愚か者の妄想に過ぎない。


「……これからどうするつもりだ。」

「何がですか。」

「家もお金もなければ、今後はどうして住むつもりか、という話だ。」


日光はくすりと笑った。


「今後のことを考えてもいいですか?俺は最後まで先輩を殺そうとしますよ。それでも良いですか?」

「良くない。邪魔で、気持ちが悪い。」

「そして怖いですよね?」


赤見は答えずに背を向けて歩き始めた。日光がバーがあると指差した方向へ。日光は赤見が間違った路地に入ろうとする前に、急いで先頭に立った。


「俺が死ななくてもいい方へ心が変わったなら、先に言っておくべきじゃなかったんですか?俺もう完全に一文無しですよ。本当にどうする?」

「電話も出なかったのはお前の方だろ。お前がおごる酒を期待する。残るものもほとんどない全財産を全て奪い取ってやる。」

「電話一回出なかっただけで、本当にたくさん文句をおっしゃるんですね。」

「別に好きでもない酒の席に付き合ってくれることを感謝しろ。」

「はい、はい。おっしゃる通りです。でも、俺、先輩の家に住んじゃダメ?先輩、お金持ちだって言ってましたよね。」

「絶対ダメ。」


一時間後、日光はピニャ・コラーダ一杯飲んで完全に酔いつぶれた赤見のカーディガンを捜し、運転免許証に書かれた住所まで赤見を連れて行かなければならなかった。情報屋の家にしてはドアロックのセキュリティが緩かったのは幸いだった。これを新しく付ける時は最新モデルに改造して付けなきゃな。


日光は赤見のリビングのソファに長く横になった。ソファがあまりにもふかふかだったので、日光は気づかないうちにうとうとと眠り込んでしまった。

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