第4話 お前が死ね。

ハードボイルド・セブン

エピソード1.渋谷

第4話




赤見が再び目覚めた。ここはまたどこだ。首の後ろに感じる枕がふかふかで、天井に家庭用の電球が取り付けられているのを見て、少なくとも日光の作業場ではないことは確実だった。無理に痛む頭を働かせれば、日光が赤見自身を移動させたのだろうから、ここはきっと日光の家だろうと推測するのが最も答えに近いだろう。


赤見はよろめきながらベッドから起き上がって部屋を出た。リビングは暗かった部屋とは対照的に明るく、美味しそうな料理の香りが漂っていた。リビングとつながったキッチンでは、Tシャツにトレーニングパンツを着た長身の男がフライパンに油を注いでいた。キッチンとリビングの間にある広々としたアイランドテーブルの上には、国籍の異なる料理が既に所狭しと並べられていた。


「起きたんですか?そろそろ夕食の時間だから起こそうかと思ったんですが、よかったですね。何がお好きか分からなかったのでいろいろ作ってみたんです。今なら食べたいメニューを教えて下さったら作れますよ。こう見えても料理は自信があるんです。」

「多すぎる。それに胃がもたれるから夕食は省略する。」

「えー。一つくらい食べてみませんか?一生懸命作ったのに。」

「嫌だ。」


泰然自若として話しかけてくるた態度や、色々指摘したいことが山ほどあったが、赤見はとりあえず思いついたことを尋ねた。


「ここはお前の家?」

「買ったわけじゃなくて、賃貸です。」

「それが聞きたかったわけじゃ……。ああ、いいや。ともかく、立派だね。」

「まあ、危険手当が高い職業だからです。ご存知通りですけど。」

「そりゃそうだろうな……。」


聞くのも面倒だ。赤見は一見にも高級そうに見えるソファに倒れ込むように座り込んだ。立派だの何だの言っても、実際は日光の家は裕福な人を搾取するのが仕事の赤見の自宅よりずっと質素だった。


調理器具を適当に片付けた日光は上向きに上がった目尻がくっと折れるほど、そよぐように笑みを浮かべながら、赤見が座る長いソファの端に軽く腰かけた。勝手に親しげに振る舞うので、面倒くさくくっついてくるかもしれないと予想していたが思ったより適切な距離感だった。


「さっきは泣いていたのに、今はよく笑うんだね。」


特にからかうつもりで言ったわけではなく事実を指摘しただけだったのだが、日光はすぐに耳が真っ赤になり声を上げた。


「うう、それは!先輩が俺を怖がらせるかもしれないからだったんだ!」

「それで、もうその悩みは諦めたのか?」

「先輩が……優しくしてくださるから、そうじゃないかもしれないという可能性が生まれたんです。」


ぶつぶつ文句を言う姿が少し子供っぽかった。そういえば十歳も年下だったな、こいつ。しかし、殺人請負業者を相手に油断しては禁困る。赤見は試しに日光に水を運ぶよう、催眠を交えた命令を下した。日光はすぐに立ち上がり、キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。赤見は水を少し飲んだ後、手に握った冷たいボトルを赤くなった頬に当て、優しく転がした。


「催眠は期待以上に効いているみたいだけど、記憶を消せないなんて、気が狂いそうだな。」


日光は歯をむき出しにして笑ったので、赤見は日光に拳を突き出して自分で顔を叩くよう命じた。


「痛い!ひどいじゃないですか、先輩!こんな情けないことをするつもりですか?」

「言われたことは全部やるって言っただろ?」

「それはもちろんやりますよ!」


日光は少し悔しそうに答えた。


「でも催眠を解いた瞬間、お前は私を殺そうとするだろう。」

「それもそうですね。」


意外と真剣な同意の言葉が返ってきた。日光は赤見の前にある低いテーブルの上に移動した。腕を組んで座った日光は赤見と向き合った。鋭い目つきの中の瞳孔が小さな三白眼のついが、いつの間にか獲物を前にした肉食動物のような眼光を赤見に向けられていた。


「必ず殺しますよ。俺は殺すと決めたら、途中で心を変えることは一度もないから。そしてあの作業場。誰もそこを知らないです。知られたくないです。しかし、俺は先輩の目さえも隠さなかったですよ。なぜかはご存知ですよね。そして事前に言っておきますけど、海外に逃げるという考えは捨てて下さい。俺の標的の半分以上は海外に逃亡した犯罪者ですよ。俺は先輩の本名も顔も身体的特徴も現在の位置も知っています。だから、先輩が今ここから逃げても、24時間以内に探し出すことができます。」


赤見が黙り込んだままだったので、日光は手の甲で顎を擦りながら眉をひそめた。日光の整った顔に真剣さが加わると、赤見は自分が死ぬかもしれないという深刻な状況とは似つかわしくない『こいつ、本当にイケメンだな』という少し馬鹿げた考えが浮かんだ。


「先輩のこの催眠術ですけど、どれくらい効くんですか?期間的にです。それとも発動条件みたいなものは?全部教えて下さい。」


日光の目が鋭く光った。なぜ赤見はこんな男をただの無頼漢として誤解していたのだろう?こいつは知力でも私より優れているかもしれない。赤見はそんな予感がした。


「なぜ私がそれをお前に言わなきゃならないんだ?」

「ええ、そんなに警戒しないで下さい。俺、傷つきますよ?完全に先輩の味方である今の俺から情報を隠しても、先輩が俺に与えた情報と俺が知っている俺の情報を組み合わせて、俺が先輩を助ける道を阻むだけです。催眠が解けない限り俺は先輩の最高のアセットですよ。少しリスクはあるけど。先輩も馬鹿じゃないなら、わかるですよね。」


説得力のある提案だった。あるいは赤見があまりにも疲れて、藁にもすがりたい気持ちになったのかもしれない。どのような理由でも、赤見は日光を自由に利用できる機会を逃すまいと結論付けた。いずれにせよ、今現在、赤見は絶対的な優位を占めているから。


「催眠がうまく効いたと仮定した場合、平均的な最大期間は3日。条件は視界内で目と目が合わなければならない。それ以外の条件はほぼない。話すのは私自身がちゃんと意識するためだ。思考だけで操ることは可能だ。」


聞くだけで背筋が凍るような発言だったが、日光の表情は微動だにしなかった。むしろ、より深く考え込む表情がなぜか平和そうに見えたと赤見は思った。奇妙な考えだったが。


「では、先輩は俺を3日、いや、安全のためなら2日に1回は会って、催眠術をかけ続ける方がいいですよ。」

「そうするしかないな……。」


赤見もそれが現在では自分が生き延びる唯一の手段だと結論付けていた。2日に1回か3日に1回かは些細な問題に過ぎず、残りの人生をこの殺し屋と付き合っていくしかない。赤見は黙ってソファに横たわり天井を見上げた。昨日のあの横断歩道に戻れたなら。落としたカフェラテなんて何の価値があってこんなに命まで賭けることになったんだ?


「俺が死ねば、」


赤見は日光を振り返った。


「俺が死ねば、先輩は安心して暮らせます。人を跡形もなく殺す方法は俺が全て知っているから先輩は俺に『死ね』と命令するだけでいいです。」

「お前……死にたいのか?」

「いいえ。でもできます。先輩が命じれば。」


日光は膝の上で拳を握っていなかった。リラックスした状態で話していたのだ。赤見は突然、自分の腕をそっと握っていた日光の手の温かさと重さを思い出した。


自分自身に催眠をかけてその記憶を全て消すことができればいいのにと考えた赤見が命令した。


「そうしろ。お前が死ね。」

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