第3話 何でもないはずがないですよ。
ハードボイルド・セブン
エピソード1.渋谷
第3話
「ニッ……!」
日光は赤見が自分の名前を最後まで呼ぶ前に、右足を上げて赤見の口を蹴った。体に染み付いたような素早くて綺麗な動作だった。激しい痛みに悲鳴も上げられずもがく赤見を、日光は冷たい目で見下ろした。急角度に上げられた彼の口角から、キリッと歯が軋む音が漏れた。
「どうやってやったのかは知らないが、よくも俺を弄んだものだ。おかげで久しぶりに退屈せずに時間を過ごせたよ。新しいことも学んだことのもあったし。俺はつまらないものより、むしろクソみたいな方がマシだと思っていたんだ。でも、この経験をしてみると、そうでもないな?だから今こそ俺の言葉をよく聞け、赤見明。テメの正体は何なのかなぜ俺を標的にしたのか、聞きたいことは山ほどある。な、俺はさ……。」
日光は片手で赤見の髪を掴み、自分の目の前に引き寄せた。日光は不用意に赤見の目を真っ直ぐに見つめた。当然ながら、赤見の瞳は一瞬で赤い光に沸き立った。
「赤見先輩!」
日光は慌てて赤見を抱き上げた。ようやく頭が胸より上になった赤見は、うめき声を吐き出した。頭がぐるぐると回り、破れた口の中から生臭い血の味がして、吐き気がした。赤見が息を整える間、日光は赤見の体に巻き付いていたケーブルタイを切り、天井から彼を引きずり下ろした。赤見は床に足が着いた瞬間、大の字に倒れ込んだ。倉庫の床からは死体の臭いに違いない悪臭がひどく漂っていたが、今の赤見にはそんなことを気にする余裕は残っていなかった。
「私に何をした、日光……。」
「本当にごめんなさい!俺たちがいたカフェの近くで潜伏していて、先輩が出てきた途端に後ろを狙ってここに引きずり込んて、それでも怒りが収まらず気を失った先輩を死ぬことない程度に殴って吊るしておいたんです!」
その通りそのまま答えを聞くつもりではなかったのだが。ともかく状況把握には役立った。赤見は未だにも痛む口元をさすりながら、そばに膝をついて座って赤見の状態を気遣うのに夢中の日光に再び尋ねた。
「何と言おうとしたんだ?」
「え?何ですか?」
「さっきだよ。聞きたいことが山ほどあるけど、俺はさ』の次に何と言おうとしたんだ?」
「ああ。」
日光は理解したように頷いた。
「『テメには何も聞かない。テメのその吐き気のする舌でまた悪ふざけをさせるわけにはいかない。ただ殺してやる』と言おうとしました。」
「は……。」
だから口を蹴ったんだ。日光は赤見が言葉で自分を操ったと推測していたのだ。悪くない推理だった。赤見が日光の立場だったとしてもそう考えただろう。
「まず、私を起こして。いや、しばらくはこのままで。全身が痛む。今は何時で、ここはどこだ?」
「先輩が気を失ってから一日が経ちました。今は午後3時を回ろうとしていて……。」
日光は一瞬ためらった。この場所の説明が難しいようだった。いずれにしてもすぐに話すだろうから赤見は急かさず待った。赤見の予想通り日光はすぐに話を続けた。
「ここは俺の隠れ家であり作業場です。」
赤見はどんな種類の作業場か?という馬鹿げた質問はしなかった。
「どこあたり?渋谷の中ではあるのか?」
「……はい。」
短くためらいがちな答え。相当に教えたくないようだ。どうせこの体では今すぐ動くことは不可能だった。日光に自分を運ぶように命令したらいい、赤見も地図上の正確な場所まで知る必要はなかったのでこれは置いておくことにした。より重要な質問が別にあった。
「お前は一体……何者だ?」
「日光ですよ、先輩!先輩の前の職場の後輩ですよ!俺はどこに行っても簡単に忘れられるような顔ではないのに、もしかしてさっき俺に蹴飛ばしたせいで頭でも打ったんですか?!」
「やっぱり催眠術にかかった時のことを覚えてるんだ。」
赤見はため息をついた。事態は完全に間違っていた。忘れるように命じたのに、催眠状態の記憶が全て残っているとは。こんなことは一度もなかったのに。どうなったのか全く分からなかった。
「そうじゃダメですか?それとも先輩を殺そうとしたから怖くなりました?昨日のように俺が謝っても許してくれないんですか?」
無理矢理に笑おうとしているのが明らかな日光が焦って質問を次々と投げかけた。日光は膝の上に置かれていた自分の両拳をさらに強く握りしめた。今思えば、それが日光が緊張する時の癖だったようだ。赤見は太い血管が浮き出た日光の手の甲をぼんやりと見つめながら呟いた。
「お前は催眠術にかかって強制的に私を尊敬していることを知っているだろう。お前は実は私の本当の後輩ではないことも知っているだろう。私がそう命じたことをお前は全て覚えているから。」
「はい、先輩の言う通りです。俺は全て覚えています。」
赤見は一瞬目の前が暗くなった。胸が苦しかった。殴られたせいか。そうであるべきだった。
「それでもお前は……何とも思わないのか?」
日光の血が規則正しく脈打っていることに気づいた赤見は改めて日光が生きている人間だという明白な現実に突き返された。日光は人間だ。自分自身の生活を送り続けていた彼は不運にも赤見の目に留まっただけで、赤見のために作られた人形などではなかった。
「何でもないはずがないですよ。」
やはりそうか?赤見は抑えていた息を吐き出した。今、腹の底で渦巻いているものが良い方向のものか悪い方向のものか、全く見当がつかないほど赤見は混乱していた。しかし、日光の低く優しい声は赤見の予想とは全く異なる方向へ続いた。
「俺は今、先輩が尊敬できて誇らしくて耐えられないんですよ。催眠術でも何でもいいです。後輩でいなさいとおっしゃったので、後輩として精一杯頑張ります。先輩が命じることは何でも、完璧にやり遂げます。」
脅威的に見えるくらいに大きな拳がゆっくりと開き、長い指がまるで卵を握るような弱い力で赤見の腕を掴んだ。日光の手はすごく熱く、赤見はカーディガン越しにもその熱を感じた。
「だから先輩、お願いします。」
少し力が加わる。
「捨てないでください……。」
赤見は手を上げて、日光の頬を濡らす涙を拭いた。ただそうすべきだと思ったからだった。目まいがする。赤見はそのまま目を閉じた。
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