第52話 再会の共通言語
地下診療所の重い扉の向こうで、銃声が止んだ。
それは、ハンス・プラッツという一人の男が、自らの罪を血で購い、沈黙した合図だった。
硝煙が漂う暗がりのなか、俺は震える手でランプを灯した。
煤けた光が照らし出したのは、三年前、あの白樺の森で別れた時よりも少し痩せ、だが、その瞳に変わらぬ知性の光を宿した一人の女性だった。
「……エレーナ」
名を呼ぶ声が、涙で掠れる。
彼女は、俺の泥にまみれた軍服と、脇腹の血に染まった包帯を見つめ、それからゆっくりと、俺の頬に冷たい手を添えた。
「……シュミット。……あなたの筆致が、……ずっと、この街の配給名簿に混ざって届いていたわ」
抱き合う時間はなかった。
ハンスが稼いだ時間は、砂時計の最後の一粒のように、今この瞬間も零れ落ちている。
上層階からは、略奪兵たちの罵声と、街の包囲を縮めるソ連軍の砲声が、二重の死の足音となって響いていた。
「……エレーナ、街はもう保たない。……ここを脱出するための『通行証』が必要だ。……だが、我々には公印も、正規の書類も何もない」
エレーナは、わずかに微笑んだ。
彼女は診療所の奥から、何十枚もの「偽造された死者名簿」を取り出してきた。
そこには、俺が教えたあの「翻訳の癖」が、より洗練された形で、命を守るための盾として完成されていた。
「……シュミット。……二人の知恵を合わせれば、……ソ連軍さえも欺ける『完璧な嘘』が編めるはずよ。……彼らを、……この孤児たちを、……『死者』として名簿に書き込み、……この地獄から運び出しましょう」
死を訳し、生を編む。
俺と彼女は、爆撃の震動で砂埃が舞うなか、隣り合ってペンを握った。
俺がドイツ軍の公式な書式を偽造し、彼女がそれに、現地の役所が発行したような絶妙な汚れと署名を加えていく。
それは、この世界で二人だけにしか分からない、あまりに世知辛く、あまりに美しい「共通言語」だった。
「……書けた。……これで彼らは、……今日この街で死んだ『記号』になる。……そして、明日には名前のない『自由な人間』として、森の向こうへ行ける」
辛い。……再会の最初の一仕事が、……自分たちの死を偽装することだなんて。
だが、隣から伝わるエレーナの体温が、凍りついていた俺の芯を、確かな熱で溶かしていく。
俺たちは、完成したばかりの「偽りの命」を胸に、ハンスが守り抜いた出口へと向かった。
扉を開ければ、そこには灰色の雪と、血の匂いが待っている。
それでも、俺の手はもう離れない。
エレーナ。君と編み上げたこの「嘘」の先に、今度こそ、本当の夜明けを翻訳しに行こう。
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