第51話 遅すぎた人間への帰還
「西の街」の廃墟は、崩れ落ちた石造りの建物から立ち昇る、灰色の煙に覆われていた。
敗軍の兵士たちが略奪に走り、復讐に燃えるパルチザンの影が路地裏に潜む、秩序の死んだ街。
シュミットたちは、地図が指し示す地下診療所へと辿り着いた。
そこには、俺が夢にまで見たエレーナの筆致で「配給所」と書かれた看板が掲げられていた。
再会の喜びで胸が震える。だが、診療所の入り口には、飢えた略奪兵の一団が銃を構えて押し寄せていた。
「……シュミット。あそこに、……貴様の言っていた女がいるのか」
背後で、ハンス・プラッツが掠れた声で問いかけた。
彼が見つめる先、診療所の前で孤児たちを背にかばい、略奪兵に毅然と立ちはだかる一人の女性の姿があった。
エレーナだ。
「……ああ。……私の、……命の翻訳者だ」
「そうか。……なら、彼女をここで死なせるわけにはいかないな」
ハンスは、自らのボロボロになった少佐の軍服を整え、歪んだ略章を真っ直ぐに直した。
彼の手には、いつの間にか拾い上げた一挺のルガーがあった。
それはかつて、彼がバビ・ヤールで無数の命を「清算」するために使った、呪われた武器だった。
「……ハンス。……何を、……まさか」
「……シュミット。貴様は、私に『ハンス』という名を返した。……なら、この名は私が汚した分だけ、私自身の血で洗わなければならない」
ハンス・プラッツは、かつての傲慢な「少佐」の足取りではなく、一人の「男」の足取りで、略奪兵たちの前に歩み出た。
「止まれ! 私はアインザッツグルッペンのプラッツ少佐だ! 全員、直ちに武装を解除し、撤退せよ!」
その声は、かつて俺を震え上がらせた、あの冷酷なまでの威厳に満ちていた。
略奪兵たちが、その「悪名高い髑髏の紋章」を見てたじろぐ。
その隙に、シュミットは部下たちと共にエレーナの元へ駆け寄り、彼女と子供たちを地下へと押し込んだ。
「……ハンス! もういい、戻るんだ!」
俺の叫びに、ハンスは一度だけ振り返り、皮肉な笑みを浮かべた。
「……翻訳官。……最期に、私の最期を……『在庫整理』ではなく、……『一人の軍人の戦死』と、帳簿に書いておいてくれ」
死を訳し、生を編む。
直後、逆上した略奪兵たちの銃弾が、ハンスの胸を貫いた。
彼は倒れ際、道を塞ぐようにしてルガーを放ち続け、診療所の扉を自らの体で封鎖した。
ハンス・プラッツ。
地獄の執行者として生き、最期に一人の人間として、自分を許さなかった世界を救って消えた男。
シュミットは、地下の暗闇の中で、エレーナの震える手を強く握りしめた。
外からは激しい銃声と、そして沈黙が聞こえてくる。
辛い。……誰かの死を代償に生き延びることは、……この雪原の寒さよりも、ずっと骨身に凍みる。
だが、シュミットは涙を拭い、懐の帳簿に書き加えた。
『1942年、1月。ハンス・プラッツ。……彼は、人間としてこの地を去った』
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