第50話 対岸の沈黙

指先の感覚はもうなかった。

 膝を突き、這い上がるようにしてたどり着いた対岸の雪は、氷の河よりもさらに冷たく、重い。

 

 

 背後では、ソ連軍の追撃隊が割れた氷に阻まれ、苛立ち混じりの銃声を闇に放っている。

 俺たちは、生き延びた。

 数分前まで「在庫」と「管理者」だった男たちが、今は泥と血にまみれ、互いの無事を確かめるように肩を寄せ合って喘いでいた。

 

 

 雪の斜面を登りきった先に、一台の半分埋もれたドイツ軍のトラックが見えた。

 そこには、俺たちが捨ててきた「敗北」という名の現実が、凍りついたまま放置されていた。

 

 

「……誰か、いるのか?」

 

 

 ルック中尉が、掠れた声で銃を構える。

 トラックの陰からゆっくりと立ち上がったのは、ボロボロになった軍服を纏い、片腕を吊った一人の男だった。

 

 

 

 その顔を見た瞬間、俺の全身の血が逆流した。

 

 

「……シュミット。……やはり、……生きていたか。あの地獄を、……翻訳して逃げ延びたか」

 

 

 そこにいたのは、アインザッツグルッペンのハンス・プラッツ少佐だった。

 バビ・ヤールの谷底で、俺に「死」を数えさせた男。

 冷酷な思想の執行者だったはずの彼の瞳からは、もはや光が消え、ただ深い疲弊と、逃れようのない「孤独」だけが残っていた。

 彼はソ連軍の攻勢に飲み込まれ、自らの部隊も、権力も、すべてを失ってここにいた。

 

 

 兵士たちの間に、殺気にも似た緊張が走る。

 クルトを死なせ、自分たちを「掃除すべき在庫」として扱った男。

 今ここで、彼を雪の中に沈めても、誰も文句は言わないだろう。

 

 

 だが、俺は一歩前に出た。

 懐から、あのアインザッツグルッペンに提出を求められていた「名前の帳簿」を取り出し、プラッツの目の前で開いた。

 

 

「……少佐。……あなたは今、……我々の『在庫』ではありません。……清算すべきリストの、一番上の名前でもない」

 

 

「……何を言う、シュミット。私はすべてを失った。……部下も、名誉も、……貴様らに強いた正義さえもな。……私を殺せ。それが貴様の『復讐の翻訳』だろう」

 

 

「いいえ。……あなたは今、ハンスという名を持つ、一人の敗残兵だ」

 

 

 死を訳し、生を編む。

 

 

 俺は復讐ではなく、彼を「人間」という枠組みの中に引き戻すことを選んだ。

 プラッツを許したわけではない。彼が犯した罪は、永遠に消えない。

 だが、彼をここで殺せば、俺たちはあのアインザッツグルッペンの「狂気」と同じ場所に堕ちてしまう。

 

 

 プラッツ……いや、ハンスの唇が、震えた。

 氷の檻に閉じ込められていた彼の魂が、その名を「一人の人間」として呼ばれた瞬間、音を立てて崩れ落ちるのが分かった。

 

 

 

 辛い。……憎しみを捨てることは、銃を撃つことよりもずっと、……心が千切れるほど辛い。

 

 

 

 だが、俺たちはもう、昨日までの俺たちではない。

 

 

 

 エレーナ。

 俺は今、……最大の仇敵さえも、……『生』という一文字の中に書き加えた。

 

 

 

 俺たちは、動かなくなったトラックを背に、夜明け前の暗闇の中、身を寄せ合った。

 遠くで響く砲声は止まないが、この小さな集団の中には、世界で最も世知辛く、そして最も温かい「沈黙」が流れていた。

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