第49話 氷上の境界線

目の前に現れたのは、月光に照らされて鈍く光る、広大な氷の河だった。

 

 

 これを渡り切れば、ソ連軍の包囲網から一時的に脱出できる。

 だが、1月の猛吹雪でも、流れの速いこの河の氷は、大勢の人間が一度に渡るにはあまりに脆く、頼りなかった。

 背後からは、追撃してくるソ連軍の偵察隊による、断続的な銃声が近づいている。

 

 

「……シュミットさん、氷が鳴っています。……これ以上は、全員一度には無理だ」

 

 

 レヴィン医師が、氷を踏みしめる音に顔を曇らせた。

 兵士たちも、村の老人たちを抱えながら、足元を掬うような不気味な軋み音に立ちすくむ。

 一人、また一人と渡れば、氷は確実に薄くなり、最後尾の者は冷たい水底へ沈むことになるだろう。

 

 

 俺は脇腹の傷を押さえ、凍てつく空気の中で、必死に「翻訳」の回路を回した。

 「在庫」を捨てるのではない。……全員を、向こう岸という「未来」へ翻訳する方法を。

 

 

「……皆、聞け。……重い荷物はすべて捨てろ。……武器も、弾薬もだ。……今この瞬間に必要なのは、……自分という『名前』だけだ」

 

 

 俺は自ら、腰のホルスターから銃を外し、氷の上に置いた。

 そして、兵士たちに命じて、捨てられた外套や布切れを繋ぎ合わせ、長い「命の綱」を作らせた。

 一人が沈みかけても、全員で引き上げる。重心を分散させ、氷の悲鳴を分かち合うための策だ。

 

 

 最初の一歩を、俺が踏み出した。

 足元から「ピシリ」と、心臓を直接掴まれるような音が響く。

 

 

 

 「……来るな! ……俺の足跡を、正確に辿れ!」

 

 

 俺は、自分が編み上げてきた「名前の帳簿」を思い浮かべながら、一歩ずつ、氷の厚みを足裏で感じ取った。

 後ろには、レヴィン、老人たち、そして俺を信じてくれた兵士たちが、数珠繋ぎになって続いている。

 

 

 河の中ほどまで来た時、ソ連軍の照明弾が頭上で弾けた。

 昼間のような白い光が、氷上の無防備な俺たちを無慈悲に照らし出す。

 「いたぞ! 逃がすな!」というロシア語の叫び声。

 

 

 銃声が響き、氷が砕ける。

 叫び声を上げて、村の老人が冷たい水の中へ滑り落ちた。

 

 

 

 死を訳し、生を編む。

 

 

 「……引け! ……離すな、彼の名は、……ニコライだ! ……我々の、大切な名前だ!」

 

 

 俺は血を吐くような思いで叫び、綱を握りしめた。

 かつては「現地の老人」として切り捨てていた命。

 だが今は、俺の手を焼くほど熱い、守るべき尊厳だった。

 兵士たちが必死に綱をたぐり寄せ、泥まみれになりながら、老人を氷の上へ引きずり戻した。

 

 

 銃弾が氷を弾き、俺の頬をかすめる。

 

 

 

 辛い。……恐怖で、足が震えて動かない。

 

 

 

 だが、向こう岸に、たった一筋の道が見えた。

 俺たちは、自分たちの「名前」を叫び合いながら、砕け散る氷の上を、必死に這い進んでいった。

 

 

 エレーナ。

 見ていてくれ。……俺たちは今、……数字であることを辞め、……本当の人間として、この地獄を越えようとしている。

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