第48話 名前を背負う者
小屋の壁を震わせる砲声が、次第に大きくなっていく。
ソ連軍の包囲網が、音を立てて狭まっている証拠だった。
俺はレヴィン医師の肩を借り、激痛に顔を歪めながらも、何とかその場に立ち上がった。
腹部の傷は熱く燃えるようだが、それ以上に、胸の奥にある「希望」という名の熱が、俺の四肢を動かしていた。
小屋の中には、俺を担いできた兵士たち、レヴィン、そして震える村の老人たちが、俺の次の言葉を待っていた。
かつては「在庫」として冷徹に見つめていた顔ぶれ。
今は、俺が世界から守り抜かなければならない、唯一の「家族」のように思えた。
「……諸君。……我々に残された道は、……一つしかない。……森を抜け、西へ向かう。……私の足手まといになるな、とは言わない。……全員で、……互いを『名前』で呼び合いながら、一歩ずつ進むんだ」
俺の声は掠れていたが、小屋を支配していた絶望を打ち消すには十分だった。
兵士たちは無言で頷き、クルトの遺志を継ぐように、村人たちの荷物を背負い、彼らの手を引いた。
外は、視界を奪うほどの猛吹雪。
だが、今の俺たちには、それがソ連軍の目から逃れるための「神の翻訳」に思えた。
俺は、震える手で懐の真珠を握り、吹雪の向こうにあるはずの、エレーナの筆致を追い求めた。
道中、力尽きそうになる老人がいれば、兵士が黙ってその体を支えた。
凍傷で歩けなくなった戦友がいれば、二人がかりで肩を貸した。
「効率」や「軍規」という言葉は、この雪原には存在しない。
ただ、シュミットが書き戻した「名前」という名の絆だけが、彼らを一歩先へと押し進めていた。
死を訳し、生を編む。
俺は、最後尾を歩きながら、雪の上に刻まれる全員の足跡を見つめた。
それは、歴史の教科書には決して残らない、だが確かにこの地獄を「人間」として生きた証。
俺は、脇腹から流れる血が雪を赤く染めるのを感じながら、心の中で一人ひとりの名を唱えた。
その一人ひとりの「生」を編み上げることが、俺という通訳官に課せられた、最後にして最大の任務だった。
遠くでソ連軍の照明弾が上がり、夜空を白く照らし出す。
辛い。
一歩踏み出すたびに、意識が遠のくほど辛い。
だが、俺の目の前を歩く兵士が、不意に振り返って俺に手を差し伸べた。
「少尉、……俺の名前を、……最後まで覚えていてくださいよ」
俺はその手を、血のついた掌で強く握り返した。
「忘れるものか。……君は、……君の名前は、……」
吹雪のなか、俺たちは一丸となって、運命の境界線を越えるために歩き続けた。
エレーナ。君のいる場所まで、俺は……この「名前」たちを連れて、必ず帰り着く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます