第47話 生への沈黙
揺れに、意識が浮上する。
担架代わりの天幕から伝わるのは、軍靴が深い雪を蹴る鈍い音と、部下たちの、肺を削るような荒い息遣いだった。
「……少尉、もう少しです。……今、レヴィン先生のところへ……」
俺を担ぐ兵士の、煤にまみれた横顔が見える。
かつて俺が、カロリーを削り、密告を促し、泥を啜らせた男たちだ。
恨まれて当然の俺を、彼らはなぜ、自らの命を危険に晒してまで運び続けるのか。
森の奥深く、雪に埋もれた古い狩猟小屋に辿り着いたとき、俺を待っていたのは、疲弊しきったレヴィン医師の顔だった。
逃げ延びた村人たちや負傷兵が、身を寄せ合うようにして、俺たちの帰還を見つめている。
「……シュミットさん。……あなたという人は、……最期まで、計算違いばかりする」
レヴィンはそう呟き、震える手で俺の傷口の応急処置を始めた。
麻酔など、とうの昔に底を突いている。
激痛が走るたびに、俺の脳裏にはバビ・ヤールの谷底や、クルトの震える「K」の字が閃光のように過った。
小屋の外では、追撃してくるソ連軍の砲声が、遠く地響きのように続いている。
俺を運んできた兵士たちは、武器を握り直し、入り口で外を見張っている。
彼らはもう、誰の命令も待たず、自らの意志で「名前」を持った盾となっている。
「……レヴィン先生。……私は、……もう十分です。……彼らを……連れて……」
「黙りなさい。……私の患者を勝手に『在庫整理』させるわけにはいかない」
レヴィンは、かつてないほど厳しい眼差しで俺を射抜いた。
そして、処置を終えた彼は、一通の、ひどく古びた封筒を俺の目の前に置いた。
それは、レヴィンの家族が潜伏しているはずの、さらに西の占領地から届いた「偽りの身分証」の写しだった。
「……この書類の筆跡を見て、何か気づきませんか?」
俺は掠れた視界で、その書類の端に記された小さなサインを追った。
そこには、俺がエレーナに教えた「翻訳の癖」……特定の文字をわずかに斜めに書く、あの独特の筆致があった。
死を訳し、生を編む。
エレーナは、ただ生き延びているだけではなかった。
彼女もまた、俺が教えた「偽造」という武器を使い、名もなき人々を救う側の人間として、どこかでペンを握っている。
俺がこの地獄で編み上げてきた「名前の帳簿」は、彼女の手によって、遠く離れた地で「命の連鎖」に翻訳されていたのだ。
「……シュミットさん。……あなたは、生きなければならない。……彼女が待つ場所まで、この部下たちを連れて、……『名前』のまま、帰りなさい」
俺は、込み上げる嗚咽を、凍えた掌で押し殺した。
辛い。……生き続けることは、死ぬことよりもずっと、……血を流すほど辛い。
だが、俺の胸には今、部下たちの熱い息遣いと、エレーナが遺した筆致の希望が、静かに、しかし激しく燃え広がっていた。
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