第46話 凍りついた真珠の行方
視界が、ゆっくりと白に染まっていく。
それは降りしきる雪のせいか、それとも俺の命の灯火が、ついに尽きようとしているせいか。
村を包囲したソ連軍の砲撃は、もはや嵐のような轟音となり、俺の鼓動をかき消していた。
アインザッツグルッペンを死地へ追いやり、レヴィン先生や村人たちを森へ逃がした直後、俺の脇腹を熱い衝撃が貫いた。
誰に撃たれたのかは分からない。……あるいは、俺自身の罪が、弾丸となって返ってきたのかもしれない。
俺は、崩れ落ちるように雪原に横たわった。
冷たいはずの雪が、今は不思議と、清潔なシーツのように心地よい。
俺の指先は、震えながらも胸ポケットを探り、二つの「重み」を確かめた。
クルトが遺した血染めの四文字。
そして、エレーナから届いた、あの真珠の耳飾り。
「……ああ。……私は、……正しく翻訳できただろうか」
バビ・ヤールで失われた命。クルトの笑顔。プラッツの凍りついた心。
俺がこの戦場で編み上げてきた「名前の帳簿」は、結局、誰かを救ったのだろうか。
それとも、ただ悲しみを引き延ばしただけだったのか。
遠のく意識の中で、軍靴が雪を踏みしめる音が近づいてくる。
ソ連兵の「清算」が始まったのだろう。
俺は目を閉じ、エレーナのあの白樺の石鹸の匂いを、最後にもう一度だけ思い出そうとした。
だが、俺の体を揺さぶったのは、冷酷な銃剣ではなく、必死に俺の名を呼ぶ、掠れた声だった。
「……シュミット少尉! ……しっかりしてください、シュミット!」
重い瞼をこじ開けると、そこには逃げたはずの……俺が「名前」を書き戻してやった、あの生き残りの兵士たちの顔があった。
彼らは森へ逃げ込む直前、俺が倒れるのを見て、死地であるこの雪原へ引き返してきたのだ。
「……馬鹿な、……逃げろと言ったはずだ。……私はもう、在庫管理も、……配分もできないぞ」
「うるせえ! ……あんたが俺たちの名前を守ったんだ。……今度は俺たちが、あんたっていう『名前』を、絶対に死なせない」
死を訳し、生を編む。
俺が命がけで翻訳した「尊厳」という名の種火が、今、絶望の淵にいた兵士たちの心に、奇跡のような勇気を灯していた。
彼らは俺を担ぎ上げ、降り注ぐ砲弾の合間を、必死の形相で走り始める。
俺の掌から零れ落ちそうになった真珠を、一人の兵士が泥まみれの手で拾い上げ、俺の胸元にそっと押し戻した。
「これは、あんたの命だ。……失くしちゃいけねえ」
頬を伝うのは、雪解け水ではない。
この地獄のような東部戦線で、俺が初めて手にした、打算も、嘘も、世知辛さもない、純粋な「人間の熱」だった。
エレーナ。
世界はまだ、こんなにも残酷で、そして……こんなにも美しい。
俺を運ぶ兵士たちの荒い息遣いを聞きながら、俺は再び、深い眠りへと落ちていった。
その胸には、血に染まった四文字と、凍りついた真珠が、確かに鼓動を刻み続けていた。
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