第44話 二重の包囲網

地平線の彼方から響くのは、雷鳴ではない。

 雪原を震わせるソ連軍の重戦車、T-34の群れが吐き出す、地獄の鼓動だ。

 

 

 1942年、1月。

 モスクワ前面から始まったソ連軍の大反攻は、猛烈な吹雪とともに俺たちの陣地を飲み込もうとしていた。

 補給は途絶え、弾薬は底を突き、兵士たちは凍傷で腐りかけた足を引きずりながら、防衛線に張り付いている。

 

 

 この極限状態において、現地の住民からこれ以上の反感を買うのは自滅に等しい。

 彼らが隠し持っていた僅かなジャガイモや、凍らない井戸の場所、そして迷路のような雪原の道。

 それらの「土地の言葉」を共有してくれる彼らがいなければ、俺たちはソ連軍に撃たれる前に、この冬に殺される。

 

 

 だが、その絶望的な最前線に、戦場には不似合いなほど黒光りする軍用車が数台、音もなく現れた。

 車体には、髑髏の紋章。

 背後からやってきたのは、友軍ではなく、後方の「清算」を任務とするアインザッツグルッペンの分遣隊だった。

 

 

「……シュミット少尉。貴様の管理するこの一帯、住民との『馴れ合い』が目に余るようだな。……パルチザンに情報を流される前に、我々が根こそぎ『処理』してやる」

 

 

 指揮官の冷ややかな声が、極寒の空気に突き刺さる。

 彼らは、目の前のソ連軍との死闘など見ていない。

 ただ、自分たちの「思想的な帳簿」を埋めるために、レヴィン医師や、昨日までクルトに温かいスープを分けてくれた村の老人たちを、ゴミのように処分しようとしている。

 

 

 プラッツ少佐は、関わりを避けるように目を逸らした。

 「合理性」を説くはずの彼でさえ、この「狂った権力」の前では沈黙という安息を選んだのだ。

 

 

 俺は、震える手で懐の真珠を握りしめ、一歩前に出た。

 前には、大地を埋め尽くすソ連軍の赤旗。

 後ろには、冷徹に銃口を向ける「身内」の処刑人。

 

 

「……大尉。……今この村を焼けば、我々の退却ルートを照らす唯一の標識が消えます。……そして、彼らが持つ『土地の知識』を失えば、貴公らの車も、一時間後には雪の下に沈むことになる」

 

 

 死を訳し、生を編む。

 

 

 俺は、怒りではなく「軍の利害」という冷酷な言語に、必死に命を翻訳し直した。

 アインザッツグルッペンの指揮官が、眼鏡の奥で俺を値踏みするように睨みつける。

 

 

 

 狂った世界で正気を守るために、最も冷酷な計算式を演じなければならない地獄。

 

 

 

 俺は、遠くから近づくソ連軍の砲声を聞きながら、今、目の前にある「小さな生」を救うために、史上最高に醜悪で、しかし命懸けの嘘の帳簿を広げ始めた。

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