第42話 血に染まった四文字
銃声が止んだ後の雪原は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
偵察に向かった第3分隊のうち、自力で戻ってきたのはわずか三人だった。
彼らの軍服は裂け、凍傷と硝煙で煤けていたが、その瞳には、かつての虚無ではない「何か」が宿っていた。
一人の兵士が、俺の前に立ち、震える手で懐から一通の紙を差し出した。
「……シュミット少尉。……クルトからです。あいつ、……最期まで、これを離さなかった」
受け取った紙は、泥と、そしてまだ温かさを残した生々しい鮮血で汚れていた。
それは、昨夜俺が彼に教えた、練習用の紙の裏側だった。
そこには、俺の清書ではない、彼自身の拙く、震える筆致で、妹への言葉が刻まれていた。
『妹へ。俺は、クルトだ。……ちゃんと、自分の名前を書いたぞ。……だから、悲しまないでくれ。俺は、……名前を持ったまま、誇りを持って、……』
言葉はそこで途切れ、大きな血の滲みが「クルト(KURT)」という四文字を飲み込もうとしていた。
俺の心臓が、鋭利な氷で貫かれたように疼く。
俺が教えなければ、彼は「無名」のまま、ただの消耗品として死ねたのかもしれない。
自覚など持たず、ただ恐怖の中で消えることが、戦場での唯一の慈悲ではなかったのか。
「……少尉、あいつ、笑ってましたよ」
兵士が、掠れた声で続けた。
「……俺はもう、402号じゃない。クルトなんだって。……そう言って、最後まで引き金を引いていました。……あんたのおかげだ、シュミット」
死を訳し、生を編む。
俺が編み上げたのは、あまりに過酷な「尊厳」だった。
彼に名前を与えたことは、彼に「死の意味」を押し付けたことと同じだったのではないか。
俺は、血のついたその紙を、胸ポケットにあるエレーナの真珠のすぐ隣に仕舞い込んだ。
「……ああ。……クルトは、確かにここにいた。……私が、……私が世界に翻訳してやる。彼が、どれほど立派な兄だったかを」
俺は、溢れ出す涙を拭おうともせず、生き残った兵士たちの肩を一人ずつ抱いた。
プラッツ少佐が遠くで不機嫌そうにこちらを見ているが、今の俺には、あんな男はもはや背景のノイズに過ぎない。
エレーナ。
『生』という文字の横に、今日、『クルト』という名前が刻まれた。
俺の帳簿は、もはや管理のための道具ではない。
この地獄で散っていった、美しき魂たちの「墓碑銘(エピタフ)」だ。
俺は、重い足取りで執務室へ戻り、再びペンを握った。
クルトが遺した血の滲む四文字を、永遠に消えない記憶へと翻訳するために。
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