第41話 最初で最後の授業
「少尉……。……これ、なんて読むんですか?」
深夜の執務室。
入ってきたのは、分隊で最も若く、貧しさゆえに文字の読み書きを教わらずに戦場へ送られた少年兵、クルトだった。
彼は、俺が書き直した家族への手紙を、壊れ物を扱うように両手で捧げ持っていた。
「……君の名前だよ、クルト。……故郷の妹さんに届くように、一番きれいに、力強く書いておいた」
俺がそう言うと、彼は顔を綻ばせ、しかしすぐに申し訳なそうに視線を落とした。
「……俺、自分の名前も書けないんです。……もし、俺が死んで……。……代わりに誰かが妹に手紙を書くとき、俺の名前を間違えられたら嫌だなって……」
俺の胸の奥が、氷を飲み込んだように冷たくなった。
俺は、震える手を隠しながら、彼を机の隣に座らせた。
そして、白紙の紙と、一本のペンを差し出した。
「……いいか、クルト。一度しか教えないぞ。……これが君だ。君という人間が、この世界にいた証だ」
凍え、ひび割れた少年の指を、俺の掌が包み込む。
一本の線を引くたびに、彼は「おぉ……」と声を漏らし、雪原で初めて春の芽吹きを見つけたような瞳で紙を見つめた。
俺たちは、プラッツ少佐の密告や、明日の配分、そして降り止まない雪のことなど、すべてを忘れていた。
ただ、一文字ずつ、K-U-R-Tという「魂」を紙の上に刻み込んでいく。
「……書けた。……俺、書けましたよ、少尉!」
歪で、震えた不格好な文字。
だが、それは俺がこれまでに翻訳してきたどんな高潔な詩集よりも、力強く、気高く輝いていた。
だが、非情な夜明けは訪れる。
プラッツ少佐からの命令書が届いた。
『第3分隊は、ソ連軍陣地への強行偵察を行え』。
それは、飢えた狼の群れに羊を投げ込むような、体裁のいい死刑宣告だった。
俺は、重い装備を背負うクルトの前に立った。
彼は、胸ポケットに昨日書いたばかりの自分の名前を忍ばせ、誇らしげに俺に敬礼した。
「……行ってきます、シュミット少尉。……俺、もう自分の名前がわかりますから。……どこへ行ったって、迷わずに帰れます」
死を訳し、生を編む。
俺は、彼の小さな背中を見送ることしかできなかった。
一晩だけ教師になり、彼に「個」を与えてしまった。
それは救いだったのか。それとも、死にゆく者に与えるには、あまりに過酷な「尊厳」だったのか。
数時間後。雪原の向こうから、激しい銃声が聞こえてきた。
俺は執務室で、彼が昨夜書いた練習用の紙を見つめていた。
エレーナ。
君がくれた『生』という文字を、俺は正しく翻訳できているだろうか。
俺の眼鏡は、どうしようもなく曇り、紙の上の「クルト」という文字が、涙で大きく滲んで消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます