第40話 名前の再翻訳
1942年、1月。
すべてを凍結させる極寒のなか、俺の胸ポケットには、あの「真珠の耳飾り」が眠っている。
『生(Ж)』と刻まれたその小さな真珠は、氷のようだった俺の心臓に、耐え難いほどの熱を灯し続けていた。
彼女が生きている。
その事実が、冷徹な数字の機械に成り果てていた俺を、再び血の通った「人間」へと呼び戻したのだ。
俺は、これまで「カロリーランク」という記号で埋め尽くされていた帳簿を閉じ、新しい白紙の頁を開いた。
そして、検閲のために集められた、兵士たちの汚れた手紙の山を前に、静かにペンを走らせた。
「……分隊員402号。いや……カールの手紙か」
俺は、これまで番号で管理していた兵士を、初めてその名で呼んだ。
カールの手紙には、絶望と空腹に耐えかねた無骨な殴り書きで、「もう限界だ、死にたい」という呪詛のような言葉が綴られていた。
そのまま送れば、故郷の母親は狂い死ぬだろう。
俺は、その手紙を「検閲」するのではなく、余白に彼に代わって「翻訳(清書)」を書き加えた。
彼が本当は言いたかったはずの、だが凍えた指では書けなかった、ありふれた、しかし尊い言葉へと。
『母さん。こちらは少し寒いけれど、戦友たちと励まし合って元気にやっています。……必ず、春には帰ります。シュミット少尉という人が、僕たちのことをよく見てくれていますから』
俺の指は、皮肉にもかつてないほど滑らかに動いた。
嘘だ。これは卑劣な粉飾決算だ。
だが、俺にできる唯一の贖罪は、彼らが「番号」としてではなく、誰かの「愛する息子」としてこの地獄に存在した証を、故郷へ届けてやることだけだった。
「……シュミット。君、一体何をしているんだ。……そんな風に一通ずつ書き換えていたら、いつまで経っても終わらないぞ」
ルック中尉が、不審そうに覗き込んだ。
だが、俺が綴っている言葉の数々を目にした瞬間、彼の声は途切れた。
俺の目から、隠しようもなく溢れ出した一筋の滴が、原稿用紙のインクを滲ませるのを見たからだ。
「……中尉。私は今まで、彼らを『在庫』として数えてきた。……だが、エレーナが生きているなら、彼らの帰りを待つ誰かもまた、絶望の中で生きているはずなんです。……私は、その人たちの『生』を、翻訳しなければならない」
死を訳し、生を編む。
俺は、一人ひとりの名前を呼び、彼らの人生を肯定するようにペンを動かし続けた。
それは、合理性など微塵もない、無駄で、非効率で、この上なく美しい「大人の抵抗」だった。
エレーナ。
君が教えてくれた『生』の一文字が、今、この地獄の底で、何百もの「名前」を蘇らせている。
俺は、滲む視界を拭いもせず、夜明けが来るまで、彼らの愛の言葉を綴り続けた。
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