第39話 エレーナからのエコー
1942年、1月。
すべてを凍結させる極寒のなか、後方から軍の補給トラックが数週間ぶりに到着した。
届いたのは、不足している防寒具ではなく、後方の占領地で回収された「接収物資」という名の略奪品の山だった。
俺は検閲官として、それらの荷解きを冷淡に眺めていた。
誰の血が流れて手に入れたものか分からぬ贅沢品に、もはや何の興味もなかったからだ。
だが、無造作に放り出された木箱の中から、ひとつの輝きが俺の瞳を射抜いた。
それは、埃を被り、壊れかけた「小さな真珠の耳飾り」だった。
俺の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
忘れるはずがない。
あの夜、キエフの館で、完璧なロシア語とともに俺がエレーナに贈った、唯一の敬意の証だ。
俺は震える手でそれを拾い上げ、箱の底をさらに漁った。
そこには、俺が彼女のために偽造した通行証の、無惨に破られた欠片が混ざっていた。
「……シュミット? どうした、そんなゴミを拾い上げて」
背後から声をかけたルック中尉に、俺は答えることができなかった。
通行証が破られ、耳飾りがここにあるということは、彼女は……。
絶望が喉元までせり上がる。
だが、耳飾りを裏返した瞬間、俺の思考は「通訳官」としての冷静さを取り戻した。
耳飾りの台座には、鋭利な刃物で刻まれた、小さな、本当に小さな「傷」があった。
それは傷ではない。……キリル文字の、たった一文字。
『Ж(ジ)』。
ロシア語で「生(Жизнь)」を意味する、力強い一文字。
彼女は生きている。
これは、誰かに奪われたのではない。
彼女は生き延びるために、この貴金属を「賄賂」として使い、追っ手の目を逸らすために通行証を破り捨てたのだ。
そして、いつか俺がこれを目にすることに賭けて、たった一文字のメッセージを残した。
死を訳し、生を編む。
俺は、その冷たい真珠を掌の中で強く握りしめた。
ハンスを救えず、兵士たちに恨まれ、自分自身の罪に押し潰されそうになっていた。
だが、俺が「翻訳」したあの偽造通行証は、たった一人の女性を、地獄の淵から救い出していたのだ。
「……中尉。私は、まだ死ぬわけにはいかなくなりました」
俺の声には、昨夜までの虚無感はなかった。
エレーナが生きている。
彼女が生きるこの世界を、たとえどんなに汚れた手を使ってでも、俺は維持しなければならない。
生きなければならない。
再会するためではない。
俺が彼女に与えた「生」が、間違いではなかったと、歴史の帳簿に証明するために。
シュミットは、耳飾りを軍服の胸ポケット、心臓に最も近い場所に仕舞い込んだ。
1942年の吹雪は相変わらず激しかったが、彼の眼鏡の奥には、再び冷徹で、かつてないほど強固な「生存の意志」が宿っていた。
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