第38話 沈黙の杯
病院として接収された地下室は、消毒液の匂いと、死を待つ者の重苦しい吐息で満ちていた。
シュミットは、懐に隠した安物の蒸留酒を一本携え、明かりの消えかけたレヴィン医師の診察室を訪れた。
ハンスの遺言……あの未投函の手紙を読んで以来、彼の心は、凍土よりも冷たく、脆くなっていた。
「……シュミットさん。こんな夜更けに、管理官殿が何の御用ですか? 在庫のジャガイモの数なら、今しがた数え終えたところですよ」
レヴィンは、疲れ果てた老眼鏡を外し、皮肉を込めて微笑んだ。
だが、シュミットの顔を見た瞬間、その言葉は途切れた。
眼鏡の奥にある通訳官の瞳が、今にも崩れ落ちそうなほど、深い絶望に濁っていたからだ。
シュミットは何も言わず、机の上に酒の瓶と、不格好な鉄のカップを二つ置いた。
琥珀色の液体が注がれる音だけが、静寂の中に響く。
二人は、支配者と被支配者という立場を忘れ、ただの「生き残った者」として、向かい合って座った。
「……飲んでください、先生。……そうでなければ、私は今夜、自分自身の輪郭を保てそうにない」
シュミットの指先は、隠しようもなく震えていた。
レヴィンは黙ってカップを取り、喉を焼くような酒を一口煽ると、深い溜息を吐いた。
「……あなたは、一人で背負いすぎだ。……兵士たちをランク付けし、密告を煽り、泥を啜ってまで彼らを生かしている。……その『業』を、たった一人の帳簿で処理しようとするのは、傲慢というものですよ」
「……私は、彼らに感謝されていた。……ハンスという少年を死に追いやった私のペンを、彼は希望だと信じていたんです。……先生、私は……何を翻訳し間違えたのでしょうか」
シュミットは声を震わせ、顔を覆った。
レヴィンは立ち上がり、シュミットの震える肩に、骨張った手をそっと置いた。
それは、ユダヤ人医師として、ナチスの将校を「診断」する、あまりに奇妙で、慈愛に満ちた仕草だった。
「……生き残ることは、死ぬことよりもずっと残酷で、勇気がいることです。……シュミットさん、あなたはよくやっている。……死者を数えるのではなく、今生きている私のこの手を、温かいと感じるだけでいい。……今は、それだけで十分だ」
死を訳し、生を編む。
シュミットは、レヴィンの手の温もりを通じて、自分がまだ「冷たい数字」ではなく、「血の通った人間」であることを思い出した。
暗い診察室の中、二人は朝日が昇るまで、一言も交わさずに酒を酌み交わし続けた。
窓の外では、1942年の容赦ない吹雪が吹き荒れている。
だが、この小さな「聖域」の中だけは、エレーナの白樺の石鹸のような、微かな、救いの香りが漂っている気がした。
生きなければならない。
たとえ、その道が死者の手紙で埋め尽くされていたとしても。
シュミットは、重い空のカップを置き、再び「大人」の仮面を被るために、静かに立ち上がった。
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