第37話 凍土の遺言
1942年。年が明けても、キエフの空は鉛色のままだった。
極限の飢えと寒さは、ついに軍隊という組織の理性を完全に破壊していた。
本国から届く軍票は、もはや地下壕の焚き火を熾す紙屑にもならない。
代わってこの陣地の「新紙幣」となったのは、俺がペン一本で管理する「配分表」という名の数字だった。
パン一切れ、ジャガイモ一つ。
それが命の重みと等価になり、兵士たちは俺の顔色を窺い、俺が配る「権利」を賭けて、戦友の靴や防寒着を奪い合う。
俺は、いつの間にかこの地獄の、小さな、そして無力な「神」に成り果てていた。
深夜、俺は凍死した兵士たちの遺品整理という、検閲官としての「最後の手続き」を行っていた。
その中には、故郷へ届くはずのなかった、未投函の手紙の山があった。
「……シュミット少尉。まだ、そんな『在庫整理』を続けているのか」
ルック中尉が、疲れ果てた足取りで執務室に入ってきた。
彼は、俺が管理する「新紙幣」のせいで部隊の人間関係が壊れていくのを、ただ苦々しく見守ることしかできないでいる。
「……ええ、死者は嘘をつきませんから。……生きている連中の密告を聞くよりは、よほど有意義な時間です」
俺は冷淡に答え、一通の手紙を手に取った。
それは、先日、密告によってランクを下げられ、衰弱して死んだハンスが、故郷の母親に宛てたものだった。
『母さん。僕たちの部隊には、シュミット少尉という通訳官がいるんだ。彼はひどく冷たい人に見えるけれど、彼のおかげで、僕たちは隣の部隊が全滅する中でも、まだスープを飲めている。……彼が帳簿をつけている限り、僕は春に帰れると信じているよ』
俺の手が、目に見えて震え始めた。
ハンスを「格下げ」し、実質的な死に追いやったのは、俺のペンだ。
兵士たちからは憎まれ、呪われていると思っていた。
そう思っていなければ、この非情な配分など続けられなかった。
なのに、この「数字」の犠牲になった少年は、俺を希望だと信じて死んでいった。
「……シュミット? どうした、顔色が悪いぞ」
ルックが怪訝そうに覗き込む。
俺は慌てて手紙を伏せ、眼鏡を外し、熱い掌で顔を覆った。
神などではない。
俺は、自分を信じて死んでいく子供たちの肉を削り、生き残る者に分け与えている、ただの「人喰いの会計士」だ。
死を訳し、生を編む。
俺が編み上げていたのは、救いなどではない。
それは、死者たちの無垢な信頼という名の、あまりに重すぎる「負債」だった。
俺は、誰もいない執務室で、ハンスの手紙を握りしめたまま、声を殺して震えた。
エレーナの白樺の石鹸の匂いは、もう思い出せない。
ただ、凍ったインクと、自分自身の罪悪感という名の、冷たい氷の味が口の中に広がっていた。
1942年。地獄は、まだ始まったばかりだった。
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