第36話 沈黙のクリスマス
12月24日。キエフ郊外の凍土に、聖なる夜が訪れた。
空からは、呪いのように降り続く雪。
本来なら家族と食卓を囲み、温かい火を囲んでいるはずの男たちが、今は泥と油にまみれた地下壕の中で、互いを「密告」し合う獣としてうずくまっている。
俺はこの夜だけ、自らに課した「ランク制」という名の呪縛を解くことにした。
隠し持っていたわずかな砂糖、没収品のワイン、そして農民から「取引」で手に入れた一握りのドライフルーツ。
シュミットは、泥だらけのテーブルにそれらを並べさせ、部隊の全員に「平等な配分」を命じた。
それは、大人の通訳官が、冷え切った部下たちに贈る、最後の一欠片の「人間性の翻訳」だった。
「……諸君。今夜だけは、数字もランクも忘れてくれ。……これは命令だ。……存分に食べて、……そして、眠れ」
だが、地下壕を支配したのは、歓喜の声ではなかった。
耐え難いほどの、重く、澱んだ「沈黙」だった。
兵士たちは、差し出された甘いパンを手にしながら、誰一人として隣の戦友と目を合わせようとしない。
昨夜、食糧を増やすために友の体調不良を密告した者。
友の震えを、蔑むような瞳で帳簿に記した者。
差し出された「慈悲」が、自分たちが犯してきた「生存のための裏切り」を、鋭利な刃のように突きつけていた。
甘いはずの砂糖は、彼らの舌の上で、砂を噛むような罪悪感へと変わっていく。
ルック中尉は、ワインの入ったカップを握りしめたまま、ただ暗い壁を見つめていた。
彼は一口も飲もうとせず、掠れた声で呟いた。
「……シュミット。この静寂が、君の望んだ結果か。……腹は満たされても、俺たちの魂は、もう二度と一つには戻れない」
俺は答えなかった。
眼鏡の奥で、揺れる蝋燭の炎を見つめる。
魂を殺してでも、肉体を生かす。それが俺の選んだ「大人の地獄」だ。
死を訳し、生を編む。
どこからか、遠い風の音に混じって、ソ連軍の陣地から「きよしこの夜」の旋律が流れてきた。
それは、敵もまた同じ地獄にいることを告げる、呪詛のような賛美歌だった。
俺は一人、地下壕の隅で、エレーナから貰った白樺の石鹸の、砕けた欠片を指先でなぞった。
「さようなら」とロシア語で囁いたあの夜の熱だけが、この凍てつく聖夜で、唯一の真実のように思えた。
誰も笑わず、誰も歌わない。
ただ、甘いパンを咀嚼する音と、誰かの押し殺したすすり泣きだけが、1941年の冬の底へ消えていった。
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