第35話 死の相互監視
キエフの夜、凍りついた陣地を支配しているのは、敵の銃声ではない。
それは、焚き火の爆ぜる音さえも憚るような、低く、湿り気を帯びた「密告」の囁きだった。
俺が定めた「カロリーランク」……生存の優先順位という名の物差しが、皮肉にも兵士たちの瞳を、戦友の欠点を探す獣のそれに変えてしまっていた。
深夜、俺の事務室のドアを叩く、控えめな音が響く。
入ってきたのは、かつてルック中尉が「最も勇敢な若者だ」と称えていた分隊員の一人だった。
「……少尉。報告があります。……同じ分隊のハンスですが、昨日の行軍中、三度も膝をつきました。……それと、夜中にひどく咳き込んでいます。……おそらく、もう長くはありません」
俺は眼鏡の奥で、その若者の血走った瞳を見つめた。
彼はハンスの容体を心配しているのではない。
ハンスの「高ランク」な配分を奪い取り、自分たちの分隊の腹を満たすために、戦友を『不良在庫』として告発しに来たのだ。
「……それが事実なら、ハンスのランクは『負傷兵』に格下げし、配分は半分にする。……それでいいか?」
「は、はい。……それが、部隊全体の効率のためですよね、少尉?」
若者は、罪悪感を隠すように、俺の「合理性」という言葉を盾にして部屋を去った。
俺は、手帳に記されたハンスの名前に、冷徹な斜線を引く。
死を訳し、生を編む。
俺が編み上げたこのシステムは、兵士たちに「隣人が脱落すれば、自分の胃袋が膨らむ」という地獄の計算式を植え付けてしまった。
ルック中尉は、この惨状を見て、言葉を失い、ただ雪原を見つめて立ち尽くしている。
「……シュミット。君は、彼らから最後の一欠片の人間性まで奪うつもりか。密告し合い、戦友の死を望み合う……これが、君の言う『生存』か?」
ルックの声は、凍てつく風に震えていた。
俺は、凍りついたインクを吐息で溶かしながら、感情を削ぎ落とした声で答える。
「中尉。……道徳で腹は膨らみません。……私は、彼らが『聖人』として全滅するよりも、……『獣』として一人でも多く春を迎えることを選んだ。……私を恨むなら、いくらでも恨めばいい。だが、この数字は動かさない」
夜が明けるたび、俺の机には新しい密告のメモが積み上がる。
誰が震えていた。
誰がスープを零した。
誰が……もう、限界だ。
俺は、自分が編み上げた巨大な密告の網の中心で、独り、凍えた指先を動かし続けた。
エレーナの白樺の石鹸は、もう鞄の底で砕け散っている。
この地獄で、最後に残るのは「数字」か、それとも「虚無」か。
俺は、窓の外で降り続く、すべてを白く塗りつぶす雪を、ただ無言で見つめていた。
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