第33話 凍土の利害関係

キエフの北方に広がる雪原は、すべてを飲み込む白い墓標へと姿を変えていた。

 

 

 プラッツ少佐は、暖炉の前で最高級のブランデーを揺らしながら、眼鏡の奥で計算を巡らせる俺に、毒を含んだ微笑を投げかけた。

 彼は俺の「弱み」を握りきれない代わり、組織という名の鎖で俺を縛りにきたのだ。

 

 

「……シュミット。隣の第35連隊の指揮官は、私の古い友人でね。あちらでは凍傷による切断手術が、麻酔なしで行われているそうだ。……我々の潤沢な『私蔵品』を、少しばかり親睦のために融通してやってはどうだ?」

 

 

 これは提案ではない。

 「部隊の和」を盾にした、合法的な強奪の宣告だ。

 俺がここで拒めば、隣接部隊の怨嗟は俺に向けられ、俺の築いた聖域は「利己的な隠れ家」として糾弾されるだろう。

 

 

 傍らで聞いていたルック中尉も、目を血走らせて俺を凝視している。

 「同じドイツ兵を見殺しにするのか」という、無垢で、それゆえに鋭い正義の刃が俺を刺す。

 

 

 俺は、凍った指先で手帳を捲り、眼鏡を中指で押し上げた。

 大人の損得勘定とは、ただ失うことではない。

 失うもの以上に、欠かせないものを奪い返すことだ。

 

 

「……少佐。第35連隊は、後方の集積所から直接引いている『高純度ガソリン』の優先受領権を持っていますね。……薬品を渡しましょう。その代わり、彼らの燃料枠の三割を、我々に『永続的に』譲渡させてください」

 

 

 プラッツの笑みが凍りついた。

 俺が求めたのは、一時の対価ではなく、冬を越すための「生命線」そのものだった。

 

 

「……シュミット。貴様、戦友の苦境を、商売の種にするというのか?」

 

 

「いいえ、少佐。これは『貿易』です。……麻酔があれば彼らの兵士は絶叫せずに済み、燃料があれば我々の兵士は凍えずに済む。……どちらが欠けても全滅する地獄で、帳尻を合わせるのが私の仕事ですから」

 

 

 ルックが絶望したように顔を背けた。

 「命を取引の材料にするな」と言いたいのだろう。

 だが、俺はその軽蔑を甘んじて受け入れた。

 感情を殺し、数字を編む。それが、この地獄で通訳官が果たすべき唯一の役割だ。

 

 

 結局、交渉は成立した。

 病院から麻酔薬と包帯が運び出されるのと引き換えに、俺たちの手元には、凍らない高品質な燃料の権利が転がり込んだ。

 

 

 死を訳し、生を編む。

 

 

 俺が編み上げたのは、戦友たちの善意を切り捨てて得た、泥にまみれた「生存の対価」だ。

 エレーナから貰った白樺の石鹸の香りは、いつの間にか、鼻を突くガソリンの匂いにかき消されていた。

 

 

 世知辛い、と誰かが呟いた。

 俺は、その言葉さえも計算機の中に放り込み、明日を生き延びるための新しい帳簿を書き始めた。

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