第30話 暁の別離

の外から、遠い地鳴りのような砲声が聞こえ始めた。

 

 

 キエフの夜明けは、すべてを灰色の現実に引き戻す、冷徹な拒絶の色をしていた。

 昨夜の甘い熱は、暖炉の消えかけた灰とともに、霧散していく。

 

 

 俺の腕の中で眠っていたエレーナが、微かな振動に目を開けた。

 俺が軍服を整え、眼鏡をかけ直す姿を見た瞬間、彼女はすべてを悟ったように、その細い指先で俺の胸元に縋り付いた。

 

 

「……行かないで、少尉さん。私を、一人にしないで。……どこへでも、あなたの影として付いていきます。たとえ、そこが地獄であっても」

 

 

 その震える声が、俺の心臓を素手で掴み、握り潰す。

 君を連れて行けば、君はSDの共犯者として、あるいは復讐の標的として、無惨に散るだろう。

 君を地獄へ連れて行くことだけは、この俺が許さない。

 

 

 俺は、彼女を突き放すようにその手を払い、あえて耳障りな、冷酷な「侵略者」のドイツ語を叩きつけた。

 

 

「――勘違いするな、女。昨夜の言葉は、孤独を紛らわせるための戯れに過ぎない。……撤退が始まる。お前のような足手まといを連れて行く余裕など、我々にはないんだ」

 

 

 エレーナは、言葉の意味が理解できず、弾かれたように顔を上げた。

 俺は彼女の瞳を見ないように、テーブルの上に束ねた書類と、大量の隠し資産を叩きつけた。

 

 

「これは、昨夜の対価だ。……中には、キエフを脱出するための偽造通行証と、戦後まで食い繋げるだけの金が入っている。……それを持って、今すぐこの街を離れろ。二度と、私の前に現れるな」

 

 

 エレーナの瞳から、大粒の涙が溢れ落ち、絹のシーツを濡らしていく。

 彼女は、俺が渡した封筒を抱きしめながら、声を殺して泣き崩れた。

 俺は、その慟哭が心に届かないよう、感情のスイッチを完全にオフに切り替えた。

 

 

 本当は、叫び出したかった。

 昨夜の言葉に嘘はなかったと。君こそが、この地獄で見つけた唯一の光だったと。

 だが、俺にできる唯一の「翻訳」は、愛を憎しみに換えて、君を安全な場所へ追い払うことだけだ。

 

 

 俺は振り返らず、重い軍靴の音を響かせてドアへと向かった。

 そして、部屋を出る直前。

 ドアノブを握る俺の指が一度だけ震え、背後の彼女には決して聞こえないほどの、消え入りそうなロシア語を漏らした。

 

 

「……Прощай, Элена. Береги себя(さようなら、エレーナ。……お達者で)」

 

 

 その言葉は、夜明けの風に溶け、彼女に届くことはなかった。

 廊下には、泥にまみれたルック中尉が立っていた。

 彼は部屋から漏れる彼女の嗚咽を聞き、俺を殴り殺したいような目で見つめていた。

 

 

「……シュミット、君は……本当に、血も涙もない男だな」

 

 

「ええ、知っていますよ。……さあ、行きましょう、中尉。……地獄が、俺たちを待っている」

 

 

 死を訳し、生を編む。

 

 

 俺が彼女のために編み上げた最後の糸は、世界で一番冷たい、さよならの言葉だった。

 館を出た俺の視界は、冷たい朝靄に包まれ、真っ白に霞んでいた。

 頬を伝う熱いものが、凍てつく風に一瞬で冷やされていった。

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