第29話 夜の余白
揺れる蝋燭の炎が、部屋の隅に置かれた年代物のピアノの黒い肌を、鈍く照らしている。
シュミットは、コニャックを一口含むと、隣に座るエレーナを静かに、だが射抜くような眼差しで見つめた。
そして、これまで使っていた無機質な通訳官のロシア語を捨て、まるで古の宮廷から抜け出してきたかのような、完璧で優雅な響きを紡ぎ出した。
「……麗しきエレーナ。この硝煙の匂いさえなければ、今夜はまさに、白夜のサンクトペテルブルクを語るにふさわしい静寂(しじま)だとは思いませんか?」
エレーナは、息を呑んで硬直した。
その言葉遣いは、単なる「上手いロシア語」ではなかった。
かつてのロマノフ王朝の皇族だけが用いた、格式高く、慈愛に満ち、それでいて相手を跪かせるような圧倒的な気品を宿していたからだ。
「……少尉さん、あなた……一体、何者なのですか? その話し方……そんな響きを耳にするのは、革命で私の世界が崩れ去って以来のことです」
彼女の瞳に、恐怖ではない、純粋な驚愕と、忘れかけていた憧憬が混ざり合う。
シュミットは微かに微笑み、眼鏡を外して、彼女の震える頬を熱を帯びた手でそっと包み込んだ。
「私はただの、時の旅人に過ぎません。……だが、今夜だけは、あなたがかつて愛したあの時代の、最後の騎士としてここにいたい。……どうか、私にその栄誉を」
その言葉は、絶望の泥沼にいた彼女の心を、一瞬にして黄金の時代へと連れ去った。
シュミットは不器用に、しかしこの上なく優しく、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
それは奪うための接吻ではなく、彼女が失ってきた自尊心と、凍てついた心を溶かすための「再翻訳」の儀式だった。
エレーナは震える吐息を漏らし、少尉の胸に顔を埋めて、子供のように声を殺して泣き始めた。
死を訳し、生を編む。
今夜、シュミットが編み上げているのは、誰にも侵されることのない、たった二人のための「聖域」だ。
彼はエレーナの背中を、壊れ物を扱うような手つきで抱き寄せ、その髪に何度も唇を寄せた。
「……愛しています、エレーナ。……たとえ明日、私がこの軍服を着た悪魔に戻らなければならないとしても。……今、この瞬間の私は、あなただけのものだ」
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