第28話 選別者の独白

深夜。臨時野戦病院と化した納屋の周囲には、凍てつくようなキエフの静寂が降り積もっていた。

 

 

 梁に吊るされたランプが風に揺れ、荒削りの床に伸びたシュミットの影を、不気味に、そして弱々しく揺らしている。

 

 

 シュミットは、アルコールと古い血の匂いが混じり合う影の中で、一人の男の前に立ち尽くしていた。

 老医師、レヴィン。

 バビ・ヤールの峡谷で、シュミットがその震える指先に「生存」という無理矢理な理由を添えて、列から引き抜いた男だ。

 

 

「……レヴィン先生。少し、いいでしょうか」

 

 

 シュミットの声は、いつもの氷のような響きを失い、ひび割れた土のように掠れていた。

 老医師は血に汚れた手袋を脱ぎ、深く刻まれた眉間の皺を動かさずに、じっとシュミットを見つめた。

 

 

「……少尉さん。次の患者ですか? それとも、また別の場所へ誰かを送るための『選別』ですか?」

 

 

 その静かな問いかけは、シュミットの胸の最も柔らかい部分を、鋭利なメスのように切り裂いた。

 シュミットはたまらず眼鏡を外し、酷く疲れた手つきで顔を覆った。

 

 

「……すまない。他のみんなを。……あの日、峡谷に残してきたすべての人々を……助けられなくて、本当に、すまない」

 

 

 絞り出すような、初めての告白だった。

 大人の損得勘定も、未来への投資も、ここでは何の役にも立たない。

 

 

 数万の命を「非効率」として切り捨て、わずか数人の命だけを「有用」と綴り直した。

 その身勝手な傲慢さと、あまりに小さすぎる自分の手が、今の彼には耐え難い重荷となっていた。

 

 

「私は、神を気取っていたわけではない。……ただ、自分の手の届く範囲で、計算が合う数だけを拾い上げた。……残りの人々の叫びを、私は意識的に聞き流したんだ。……自分の心を守るために」

 

 

 老医師レヴィンは、シュミットの震える肩を静かに見つめ、やがてゆっくりと首を振った。

 その瞳には、憎しみも、ましてや感謝もなく、ただ果てしない「理解」だけが、深い湖のように湛えられていた。

 

 

「……少尉さん。あなたは、あそこで人々を殺していた軍服を着ている。……だが、あなたの目は、あの日死んでいった者たちと同じ、絶望の色をしている」

 

 

 レヴィンは、古びた棚から清潔な布を取り出し、シュミットの汚れた眼鏡を無言で拭き始めた。

 その手つきは、患者の傷を縫う時と同じように、ひどく丁寧で、慈愛に満ちていた。

 

 

「我々を助けたのが、あなたの『損得』であれ、ただの気まぐれであれ……。……生かされた我々には、あなたが救えなかった者たちの分まで、ここでメスを握り続ける義務がある」

 

 

「……私は、自分自身の罪を、あなた方の技術で薄めようとしているだけかもしれません」

 

 

「そうかもしれません。……ですが、謝罪はもういい。それは生きて帰り、戦が終わってから、あなたの信じる神にでも言いなさい。……今、あなたがすべきなのは、その眼鏡をかけ、明日も冷徹に『数字』を読み取ることだ」

 

 

 シュミットは、返された眼鏡を再びかけた。

 視界は皮肉なほどに、クリアに、冷たく戻っていた。

 

 

 救えなかった数万の影は、これからもずっと、シュミットの背後を歩き続けるだろう。

 罪が消えることはない。赦されることもない。

 

 

 それでも、この汚れた聖域で、泥にまみれたメスを握り続ける男の言葉が、シュミットの心に、新しい「生存の定義」を刻みつけた。

 

 

 死を訳し、生を編む。

 

 

 その編み目がどれほど不格好で、血に汚れていようとも。

 彼はこの地獄のような時代の中で、一目ずつ、絶望的な編み作業を続けていくしかないのだ。

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