第26話 血の配当
キエフの北西、バビ・ヤール。
あの峡谷に遺されたものは、土に還るべき数万の命だけではなかった。
誰かの指で光っていたはずの指輪、大切に使い古された銀の懐中時計。
人々の人生そのものであったはずの遺品たちが、今や泥にまみれた「戦時没収品」として、倉庫の床に無造作に積み上げられている。
ハンス・プラッツ少佐は、薄暗い倉庫の隅で、黄金の輝きを食い入るように見つめていた。
ランプの灯りに照らされた彼の横顔は、勝利の喜びではなく、ひび割れた渇きを埋めようとする亡者のそれだった。
「……これさえあれば、戦後、どこへでも行ける。軍の帳簿に載せる必要はない。そうだろう、シュミット?」
俺は、プラッツの言葉に潜む「毒」を、冷めた目で見つめていた。
欲は一人で抱えれば、ただ自分を焼き殺すだけの劇薬になる。
だが、それを全員に配り、等しく胃の中に収めさせれば、それは強固な「防壁」に変わる。
俺は、眼鏡の奥で算盤を弾き、大人の解決策を提示した。
「……少佐。一人で飲み込めば、それは単なる『横領』です。明日、憲兵に首を吊られても文句は言えませんよ」
「何だと……?」
俺は、黄金を弄ぶプラッツの手を、冷え切った指先で制した。
耳元で囁く声は、自分自身でも驚くほど、感情が剥ぎ取られていた。
「ですが、これを全員で分ければ、それは『連帯』へと翻訳される。……兵士たちに『特別報奨金』として分配するのです。故郷で腹を空かせた、家族への仕送りにしろ、と」
「全員に……配るというのか? この莫大な財を!」
「ええ。全員がこの金を受け取れば、バビ・ヤールの惨劇を告発できる者は、この部隊に一人もいなくなる。……告発は、自分と家族の破滅を意味する『裏切り』に変わるからです。……わかりますね?」
翌日。
冷たい霧が立ち込める陣地で、兵士たちに封筒が手渡された。
泥と硝煙にまみれた彼らは、手渡された金貨や外貨が、誰の「生」の欠片であるかを知っている。
一瞬の戸惑い。だが、彼らは震える手でそれを懐へ収めた。
故郷で待つ妻のため。パンを買えない子供のため。
誰もが、その汚れた輝きに、未来を託さずにはいられなかった。
ただ一人、ルック中尉だけが、差し出された封筒を力任せに撥ね退けた。
「……シュミット。君は、彼らの魂まで買い取るつもりか。この金が、あそこで死んだ人々の何であったか、君には見えていないのか」
ルックの瞳には、かつての友情の代わりに、深い蔑みと痛切な絶望が宿っていた。
俺は、足元に落ちた封筒を無表情に拾い上げ、埃を払う。
「……名誉でパンが買えますか、中尉。私は、あなたの部下たちが戦後に飢えないための『送金票』を編んでいるんです。……生き延びること以上に優先すべき損得が、どこにありますか」
「……そんなものは、救いではない! 呪いだ!」
「ええ、呪いでしょう。……ですが、死ぬよりは、ずっとマシだ」
俺の声は、凍てつく冬の兆しを含んだ風に、さらさらと流されていった。
部隊の士気は、皮肉にもかつてないほどに結束した。
だが、それは忠誠心からではない。
「この部隊が崩壊すれば自分も戦犯になる」という、逃げ場のない共犯関係が生んだ、暗く重い沈黙だった。
死を訳し、生を編む。
俺が編み上げたのは、血に汚れた金で繋がれた、巨大な共犯の網だ。
その網に捕らえられた俺たちは、もはや二度と、光の当たる場所へは戻れない。
ポケットの中の金貨が、歩くたびにカチリ、カチリと乾いた音を立てる。
それは、俺の魂が少しずつ、摩耗して削れ落ちていく音のようだった。
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