第23話 共犯の契約
勝利の歓喜に沸く陣地。
その熱気の中心から離れた場所で、俺は一人、胃の奥がせり上がるような静寂の中にいた。
やり遂げたはずだった。
未来の元帥閣下に特大の「貸し」を作り、自らの生存権を歴史に刻み込んだ。
だが、その代償は、硝煙が消えるよりも早く俺の背後に忍び寄っていた。
「――シュミット少尉。プラッツ少佐が、至急お呼びだ」
伝令の兵士の目は、同情でも敬意でもなかった。
それは、屠殺場へ引かれる家畜を見送るような、冷え切った眼差しだった。
俺は背筋に走る戦慄を、大人としての無表情という仮面で押し殺した。
プラッツ少佐の私室。
そこには、戦場の喧騒が遠い世界の出来事のように思えるほど、重苦しい沈黙が満ちていた。
机の上には、一台のマグネトフォン(録音機)が鎮座している。
ハンス・プラッツは、磨き上げられた軍靴のつま先を凝視したまま、俺が部屋に入るなり、無言で再生ボタンを押した。
『……これは将来、モスクワのヴァシレフスキー将軍への「付け」だ』
スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの、だが紛れもない俺の声。
ロシア語で紡がれた、明白な裏切りの証拠。
「……この『翻訳』、どう説明するつもりだ? シュミット少尉」
プラッツが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、部下への信頼など微塵もなかった。
そこにあるのは、獲物の急所を完全に見定めた、捕食者の下卑た快楽だけだ。
「我がドイツ軍の勝利を、お前は自分の『保険』のために売った。……違うか?」
俺はぐっと喉の奥を堪えた。
史実のハンス・プラッツ。
彼は戦後の裁判を狡猾に逃げ延び、病死するまで天寿を全うする男だ。
だが、その運命の帳簿には今、俺という「不確定要素」がペンを走らせている。
「……少佐。その録音、私がわざと残したとは考えられませんか?」
「何だと……?」
俺は、震えそうになる指先を机の縁に食い込ませ、プラッツの目を真っ向から見据えた。
「その通信機の発信コード。実は少佐、あらかじめあなたの個人認証をリンクさせておきました」
プラッツの顔から、余裕の笑みが剥がれ落ちた。
「私が裏切り者として吊るされるなら、あなたは『裏切りの共犯者』として隣に並ぶことになる。……あなたが戦後、のうのうと逃げ延びる未来など、私が許さない」
「貴様……狂ったか!」
プラッツが腰のルガーに手をかける。革ホルスターが軋む音が、死神の足音のように響いた。
だが、俺は動じない。大人の交渉術とは、相手の恐怖を「利益」へと翻訳することだ。
「少佐。私はあなたの首を絞めたいのではない。……『共犯者』が欲しいだけです」
俺は、歴史という名の残酷な帳簿を、頭の中で強引に書き換えていく。
「あの参謀を逃がしたのは、ソ連中枢への『毒』を流すため。……そしてその毒を管理できるのは、私と、私を公的に守るあなただけだ」
「……」
「私を支えれば、戦後、あなたは『ソ連軍への協力者』として、最優先で保護される地位を約束しましょう。……泥を被り、手を汚すのは私一人でいい。あなたはただ、私の背後で安楽椅子に座っていればいいんです」
プラッツの指が、銃のグリップから力なく離れた。
彼は強欲な男だ。
そして、強欲な男ほど、「自分だけが助かる特権」という甘い蜜には抗えない。
俺は、机の上の録音テープを、ゆっくりと自分の手元に引き寄せた。
「死を訳し、生を編む。……少佐、あなたの汚れた命も、私が編み直してあげましょう。……その代わり、今日からあなたは私の『盾』だ」
プラッツは、不気味なほど青ざめた顔で、俺を凝視していた。
もはや、どちらが上官で、どちらが操り人形か、その沈黙が雄弁に物語っていた。
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