第22話 未来への投資
地平線の彼方から、鉄を焼く硝煙と、骨を凍らせる秋の夜気が押し寄せていた。
ハンス・フォン・ルック中尉率いる戦車隊は、今や絶壁へと獲物を追い詰めた狼の群れだ。
ソ連軍の残存部隊は、完璧な包囲網の中で、ただ断末魔の時を待っていた。
俺は無線機の前で、傍受した敵軍の混乱を聴いていた。
雑音(ノイズ)の奔流を濾過(ろか)し、ある特定の周波数に意識を研ぎ澄ます。
(……見つけた。狙い通りだ。この包囲圏内に、アレクサンドル・ヴァシレフスキーの息がかかった参謀将校がいる……)
俺の脳内にある「戦史の帳簿」が、猛烈な勢いでページをめくる。
ヴァシレフスキー。
後にソ連軍参謀総長となり、対独勝利の総仕上げを行う男。
目の前の敵を全滅させれば、今日のドイツ軍の戦果はわずかに上乗せされるだろう。
だが、もしここで「ソ連軍中枢に直結するエリート」に命の貸しを作れば?
それは、ベルリン陥落後の世界で、俺が戦犯として吊るされるのを防ぐ、人類史上最強の「保険」になる。
「シュミット、全車に合図を! 勝利の仕上げだ、一気に蹂躙するぞ!」
ルックが高揚した声を上げる。
俺は無表情に時計の秒針を見つめた。
チクタクという音が、俺に「今、いくら投資するか」を迫るカウントダウンに聞こえた。
「……いえ、中尉。突撃を三分待ってください。座標〇四九に敵の対戦車砲の熱源があります」
「今動けば、あなたの貴重な四号戦車を二両は失う。……これは、極めて『不採算』な賭けです」
「何だと? だが、これまでの偵察では……」
「私の『鼻』を信じるか、それとも部下の死体袋を数えるか。選ぶのはあなたです、中尉」
俺は、一切の感情を剥ぎ取った「ビジネスマンの目」をルックに向けた。
彼はその底知れぬ合理性に気圧され、苦渋の表情で頷いた。
「……分かった。三分だ。三分だけ待とう」
その百八十秒の「空白」こそが、俺が全財産を投じて買い取った未来だ。
俺はルックが傍らを離れた隙に、秘匿回線のマイクを奪い取った。
ロシア語の、それもモスクワの参謀本部が使うような洗練された言い回しを完璧に使い分け、特定の周波数へと囁きかける。
「……聴こえるか、赤軍の参謀諸君。お前たちを包囲している『死神の通訳官』だ」
通信の向こうで、凍りつくような沈黙が流れた。
「お前たちに一つ、選択肢を売ってやる。今から百五十秒の間、北西の森の境界に、意図的な『穴』を作る」
「そこを全力で駆け抜けろ。武器は捨てろ、負傷者を抱えてな。……これは将来、モスクワのヴァシレフスキー将軍への『付け』だ」
「……なぜだ。なぜ我々を逃がす。何の罠だ」
猜疑心に満ちた声。
俺は、自分にしか聞こえない冷たい笑いを漏らした。
「これは情けではない。……『貸付』だ」
「数年後、私が勝者であるお前たちの前に引き出された時、この借りを複利付きで返してもらう。……せいぜい生き延びて、上層部に伝えておけ」
「――『シュミットという男を忘れるな』とな」
返答を待たず、俺は回線を断った。
三分後。
俺が意図的に指示した「誤った警戒配置」により、包囲網の一角にわずかな隙が生じた。
その暗闇を縫うようにして、ソ連軍の重要車両が音もなく消えていった。
「――突撃開始。脅威は霧散しました」
俺が平然と告げると、ルックの戦車隊が咆哮を上げ、もぬけの殻となった陣地へと躍り出た。
そこには脱ぎ捨てられた数丁の銃と、焼かれた書類の灰だけが、支払われた「手数料」のように転がっていた。
「……逃げられたか。シュミット、君の計算に狂いが出るとは珍しいな」
ルックが怪訝そうに呟く。
俺は真っ赤な夕陽に染まる平原を見つめながら、手帳の端に、誰にも読めない日本語で一筆書き加えた。
『一九四一年九月。ソ連軍参謀本部ルートに対し、命の債権を発生。返済期限、終戦時。』
死を訳し、生を編む。
大人の損得勘定とは、目先のメダルを追いかけることではない。
泥水をすすり、良心を切り売りしながらも、数年後の自分が笑って生き残るための「特等席」を、今この瞬間に予約しておくことだ。
「……たまには計算も狂いますよ、中尉。ですが、私は一マルクも損をしたつもりはありません」
俺の声は、戦場を吹き抜ける秋風に溶けて、どこまでも乾いて響いていた。
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