第20話 損得の天秤
キエフから前線へと向かう道中、軍用車の座席で揺られながら、俺は手帳に鉛筆の先を走らせていた。
書き連ねているのは、誰かへの遺書でも、地獄の告白でもない。これからの作戦海域における「切るべき駒」と「残すべき資産」の、血も涙もない冷徹なリストだ。
バビ・ヤール。あそこで俺は、人道という名の膨大な「徳」をドブに捨てた。だが、大人として、そしてSDの端くれとして、ただ立ち止まって悲嘆に暮れるような真似はしない。あの巨大な損失(赤字)を埋めるには、ここからの戦場、一兵卒の死にさえ「最大の対価」を翻訳して付けてやる必要がある。
「……おい、シュミット。貴様、さっきから一言も喋らんな。そんなにその帳簿が大事か?」
隣で煙草を燻らせるプラッツ少佐が、面白なさそうに声をかけてくる。俺は顔も上げず、芯の折れかけた鉛筆で次の行を書き加えた。
「損をしたくないだけですよ、少佐。我々のリソースは有限だ。無駄な死は、軍にとっての純然たる経費の無駄遣いです」
前線の野戦司令部に到着したとき、そこには見知った顔が、埃まみれの戦車兵たちを怒鳴りつけていた。
ハンス・フォン・ルック中尉。泥と油にまみれながらも、その立ち姿には貴族的な品格が宿っている。俺の姿を認めるなり、彼は灰色の瞳に微かな安堵を浮かべ、大股で歩み寄ってきた。
「シュミット! また君の『鼻』が必要な地獄へ来てくれたか。……だが、なんだ。少し顔つきが変わったな。キエフで何があった?」
ルックの問いは、鋭いメスのように、俺が封印したばかりの傷口を正確に掠(かす)めた。
だが、俺はぐっと喉の奥でそれを堪え、完璧に事務的で、完璧に中身のない微笑を貼り付けた。
「……キエフの事務仕事は、いささか退屈でしたよ。それより中尉、この防衛配備図を見せてください」
俺はルックが広げていた地図を無造作に指さした。
「この三番の陣地、ここは『切り』です。敵の初撃を吸い込ませ、砲弾を浪費させるためだけの捨て石にしましょう。その代わり、予備の五個小隊を北の窪地へ隠してください。そこが、我々が最も効率的に『利益』を回収できる場所です」
ルックは一瞬、俺の言葉の端にある血の通わない冷徹さに目を見開いた。
以前の俺なら、「一人でも多く救うために」と必死に言葉を紡いだだろう。だが今の俺は、戦場を巨大な貸借対照表(バランスシート)としてしか見ていない。
「……随分と、はっきり言うようになったな。まるで未来を既に計算し終えた、古い会計士のようだ」
ルックは複雑な表情で頷き、地図を書き換えた。
俺は彼と短く握手を交わしながら、脳内の計算機をさらに回し続ける。
ルック、あんたは将来、北アフリカやフランスでさらに大きな戦果を挙げる「超優良資産」だ。ここで無駄死にさせるわけにはいかない。そのために必要なら、俺は他の誰かを迷わず「損」として計上する。
死を訳し、生を編む。
バビ・ヤールという沈黙を飲み込み、俺のペン先はかつてないほど鋭く、一切の迷いを失っていた。
情に流されて全員を救おうとして全滅するより、十を切り捨てて九十を確実に生かす。
それが、歴史という残酷な帳簿を書き換える「大人」の戦い方だ。
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