第19話 忘却の毒

谷の向こうから延々と響いていた、乾いた、規則正しい銃声がようやく止んだ。

 キエフの街を支配したのは、平和という名の安らぎではない。肺の奥にねっとりと張り付くような、腐敗した静寂だ。秋の冷気が、石造りの街並みに漂う鉄の匂いを凝固させ、重く地を這わせている。

 宿舎に戻った部隊の空気は、数日前とは決定的に異なっていた。

 あんなに俺のギターに聴き入り、未来の旋律に魂を震わせていた兵士たちは、今や泥を被った亡霊のような顔で、互いの視線を避けるように俯いている。


「……少尉。あそこに、鳥はいなかった。そうですよね?」

 あの若い補充兵が、震える手で空のマグカップを握りしめ、掠れた声で俺に問いかけてきた。

 彼の軍服の袖には、群衆を整理した際に付着した、乾いた土と「何か」の飛沫が黒い染みとなってこびりついている。

 俺は何も答えず、ただ壁際に立てかけられたギターを眺めていた。あの夜の柔らかな音色は、もうどこにも残っていない。弦にはただ、冷たい月光が刃物のように反射しているだけだ。


「……黙っていろ。終わったことだ」

 

俺の声は、自分でも驚くほど冷酷に響いた。

 救わなかった自分を、救えなかった無力さを正当化するためには、あの惨劇を「ただの効率的な事務作業」として処理するしかない。感情を削ぎ落とし、歴史という名の巨大な歯車の一部になりきる。それが、地獄の底を覗き込んでしまった人間が、正気を保つために啜る唯一の毒だった。

 そこへ、磨き上げられた軍靴の音を響かせてプラッツ少佐が現れた。

 彼は上機嫌だった。その手には、上層部からの新たな「命令書」が、勝利の証書であるかのように握られている。


「シュミット! 素晴らしい仕事ぶりだった。貴様の冷静な通訳のおかげで、予定よりも迅速に『整理』が済んだと司令部が絶賛しているぞ。……そして、朗報だ。我々の『次』が決まった」

 プラッツは、死臭の漂う部屋の中で、新たな獲物を見つけた子供のような無邪気さで地図を広げた。

 彼にとって、あの谷で消えた数万の命は、地図上の不要な点を消しゴムで消した程度の意味しか持たない。


「次は最前線だ。国防軍が足止めを食らっている要衝がある。……シュミット、貴様の『予言』が再び必要だ。この澱んだ空気は、戦場の硝煙で洗い流してしまおうじゃないか。英雄の帰還だ!」

 俺は、震える補充兵の視線を振り切り、プラッツが指し示した地図の先を見据えた。

 救わなかった罪を、一生消えない火傷のように抱えながら、俺はさらに精緻に、さらに冷徹に、歴史という名の残酷な台本を読み解いていくしかない。それが、血で汚れたこの生を全うする唯一の道だ。


「……承知いたしました、少佐。次の地獄へ、案内しましょう」

 俺は、二度と弾くことのないギターの弦を一本、指先で乱暴に引きちぎった。

 ピン、という鋭い音が、虚無的な静寂の中で、誰かの悲鳴のように空しく響いた。

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