第17話 奈落の入り口(キエフ、バビ・ヤール)
一九四一年、九月。
キエフの街を覆う秋の空は、抜けるように高く、そして残酷なまでに澄み渡っていた。
車列が石畳を叩く音だけが、死んだように静まり返った街路に響く。窓から見える市民たちの瞳には、もはや怒りすらなく、ただ底知れない泥のような絶望が沈殿していた。
鼻を突くのは、爆撃で崩れた建物の焦げた匂い。そして、どこからか漂ってくる、腐りかけた何かを隠すような、冷たい土の匂いだ。
「シュミット、準備をしろ。貴様の出番だぞ」
ホルヒの助手席で、プラッツ少佐が重苦しい革の手袋を鳴らしながら言った。その足元には、刷り上がったばかりの、インクの匂いも生々しい「告知書」が、まるで落ち葉のように積み重なっている。
――『キエフ市内の全ユダヤ人は、九月二十九日午前八時に指定の場所に集合せよ……』
俺はその文言を、一字一句違わずに知っていた。
前世で開いた戦史資料の、乾いたページに刻まれていた悪夢。
これは「再定住」などではない。この道の先に待っているのは、数万人の命を飲み込み、歴史の汚点として永劫に記憶される巨大な谷――バビ・ヤールだ。
「通訳官として、奴らの『不満』を封じ込めろ。変な騒ぎを起こされると、上(SD)がうるさくてな。……貴様のあの、兵士どもを黙らせた『奇跡の声』なら、羊の群れを大人しく屠殺場へ導けるだろう」
プラッツが、冷え切った笑みを浮かべて俺を振り返った。
ギターを奏でたあの夜。俺の旋律に「救い」を見出した兵士たちの、あの震えるような感動。その純粋さが、今、プラッツの手の中で「効率的な虐殺」を完遂するための、最も汚らわしい道具へと鋳造(ちゅうぞう)し直されようとしている。
俺は、制服のポケットの中で、震える指先を必死に握り締めた。
死を訳し、生を編む。
だが、今、俺に求められているのは、死へと向かう行列に「偽りの安心」を訳しつけることだ。
車列が止まる。
集合場所となった角地に、不安げな表情を浮かべた家族連れや、家財道具を抱えた老人たちが少しずつ集まり始めていた。
彼らの視線が、通訳官の腕章を巻いた俺に、救いを求めるように注がれる。
俺の言葉一つで、この数万人の運命は決まっている。だが、俺が歴史を「編む」ための糸は、この地獄の重みに耐えられるほど、強くはなかった。
俺は乾いた喉を鳴らし、一歩前へ出た。
秋風が、告知書の一枚を俺のブーツの先に運んでくる。
それは、これから始まる「歴史の断末魔」を告げる、死神の招待状だった。
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