第16話 未来の旋律
宿舎の裏庭、埃を被った農機具の山に紛れるようにして、それは置かれていた。
弦が二本切れたまま、無惨に放置されていた古いアコースティックギター。俺がそれを拾い上げたのは、ほんの気まぐれだった。予備のワイヤーを代用して弦を張り直し、ナイフの先でブリッジを調整する。
静寂が支配するウクライナの夜に、チューニングを合わせる硬質な音が響く。
指先が、何十年も先の未来で愛された「和音」を、記憶の底から手繰り寄せた。
――ポロン、と。
一九四一年のドイツには存在しない、洗練されたコードが空気を震わせた。
俺は無意識に、指先で弦を爪弾き始める。
この時代の主流である、力強くも堅苦しい行進曲でもなければ、厳格な賛美歌でもない。もっと自由で、孤独で、そして救いようのないほど優しい「未来のフォークソング」。
エリック・クラプトンか、あるいはもっと後の、誰かが静かな夜に歌ったはずのメロディ。
弦を弾く指の腹に、木の温もりが伝わる。俺はその旋律に、自分でも驚くほど没入していった。ここは戦場だということも、自分が歴史を改ざんする異物だということも、一瞬だけ忘れて。
「……嘘だろ。そんな音が、この世にあるのか」
震えるような呟きに、俺の指が止まった。
振り返ると、そこには一人の若い補充兵が、幽霊でも見たかのような顔で立ち尽くしていた。昼間、墓地について不吉な問いを投げかけてきたあの若者だ。彼の後ろには、いつの間にか数人の兵士たちが、息を殺して闇の中に佇んでいた。
「少尉。今のは、一体どこの国の歌なんですか? 聴いたこともないのに、なぜか……胸が締め付けられる」
俺はギターを抱えたまま、言葉を失った。
このコード進行も、このリズムの揺らぎも、歴史が積み重なった果てに生まれた「果実」だ。今、この瞬間にこれを奏でることは、戦場に未来の電子回路を持ち込むのと同じくらい、暴力的なまでの「時空のズレ」を意味していた。
「……ただの、夢の中で聴いた風の音だよ」
俺は苦い嘘をつき、弦を掌で押さえて残響を殺した。
だが、兵士たちの瞳に宿ったのは、恐怖ではなく、救いを見つけた者特有の、熱を帯びた「信仰」だった。
「あんたには、未来の音が聞こえているんですね」
若者が、祈るように両手を組んで呟いた。
「少尉が奏でるその『音』が響く場所では、死神も足を止めるに違いない。……お願いだ、もう一曲だけ、聴かせてくれませんか。あの地獄に戻る前に」
彼らの切実な、どこか狂気を孕んだ視線が、俺の皮膚を刺す。
ふと視線を上げると、二階の窓からプラッツ少佐が、煙草を燻らせながらじっとこちらを見下ろしているのが見えた。
彼の瞳は、感動などしていない。
ただ、「この予言者は、音までも兵士を操る武器にするのか」という、恐ろしいまでの冷徹な計算が、暗闇の中で獣のように光っていた。
死を訳し、生を編む。
俺が爪弾いた数小節の未来は、戦場の空気を一変させてしまった。
俺を救世主だと信じ始めた兵士たちと、俺を「最高級の魔導具」として扱い始めた指揮官。
ギターの弦に触れる俺の指先は、夜風に吹かれて、ひどく冷たくなっていた。
静まり返った裏庭で、俺は膝の上のギターを愛おしむのではなく、忌まわしい遺物を遠ざけるように、そっと地面に置いた。
「……夢でも見てたんだよ、お互いにな」
俺は、縋るような目を向ける若い補充兵の肩を軽く叩き、寂しげな苦笑を浮かべて見せた。
「ただの古い、ありふれたメロディだ。こんなものに、明日を救う力なんてありゃしない。……いいか、寝て忘れるんだ。戦場に持ち込んでいいのは、銃と、せいぜい家族の写真くらいなものさ」
若者は何かを言いかけたが、俺の冷めた眼差しに気圧されたように、小さく頷いて闇の中へ消えていった。
一人残された俺は、自分の指先をじっと見つめる。
(……危ないところだった)
無意識のうちに未来を漏らす。それは戦術的な予言よりも、はるかに深く、彼らの精神の根底を揺さぶってしまう。これからは音楽一つとっても、細心の注意を払わなければならない。俺はこの時代の人間として、この時代の空気を吸い、この時代の絶望の中で死んだふりをし続けなければならないのだから。
だが、夜風に乗って届く街の気配が、俺の決意を嘲笑うように冷たく変化していた。
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