第15話 兵士たちの休息と疑り
豪邸のきらびやかなシャンデリアを後にし、接収された古い宿屋の扉を潜ると、そこにはむせ返るような「現実」が充満していた。
磨き上げられた石畳ではなく、泥と煤に汚れ、吐き出された煙草の煙が重く沈んだ広間。鼻腔を突くのは、安酒のツンとした刺激臭と、数日間着たきりの軍服が発する、酸っぱく湿った体臭だった。
俺が中へ一歩踏み出した瞬間、それまで沸き立っていた兵士たちの喧騒が、まるで冷水を浴びせられたように一瞬だけ凪(な)いだ。
感謝、安堵、そしてそれらを薄く覆うような、正体不明の違和感。彼らの視線が、俺の軍服の襟元に、無遠慮に、それでいて慎重に突き刺さる。
「……よう、少尉。おかえりなさい」
広間の奥、使い込まれた木製テーブルに陣取っていた古参の下士官が、欠けたマグカップを掲げて声をかけてきた。
「あの森での一件、ありゃあ神がかってた。あんたが叫ばなきゃ、今頃俺たちはみんな、鉄の棺桶の中で蒸し焼きになってたはずだ。……なぁ、少尉。あれは、本当に鳥の声だけで分かったのか?」
その問いが投げかけられた瞬間、スープを啜るスプーンの音も、椅子を引く音も、すべてが止まった。
彼らにとって、俺の「予知」はサロンでの余興などではない。自分たちが明日、五体満足で太陽を拝めるかどうかを左右する、切実で生々しい「命の拠り所」なのだ。
「……ただの、運だよ」
俺はできるだけ無造作に答え、煤けた椅子を引いて深く腰を下ろした。
「昔から、嫌な予感だけは人一倍当たる質でね。あそこは、どうにも風の吹き方が不自然だった。ただ、それだけのことだ」
「へっ、そいつはいい。あんたの鼻が利き続ける限り、俺たちの命運も安泰ってわけだ」
下士官は豪快に笑い、再び酒を煽った。だが、その隣で冷めたスープを黙々と啜っていた若い補充兵は、一度も顔を上げなかった。その震える指先が、スプーンの柄を白くなるまで握り締めている。
「……少尉。さっき、町外れの古い教会を通りました」
若者が、絞り出すような低い声で漏らした。
「あそこの墓地に、これから誰が埋まるのかも……あんたには見えてるんですか?」
広間の空気が、一気に鉛のように重くなった。
当たるのが「たまたま」だとしても、それが二度三度と重なれば、それはもはや恩寵ではなく、底知れぬ呪いとして映る。
シュミットの近くにいれば助かる。だが、その隣で誰が、どのような無惨な死を遂げるのかも、この男はあらかじめ「視て」いるのではないか。
そんな得体の知れない恐怖が、燻る薪から上がる煙のように、静かに、だが確実に兵士たちの心根に染み渡っていく。
その時、入り口の扉が勢いよく開き、上機嫌なプラッツ少佐が顔を出した。
彼は上等なブランデーの瓶を抱え、その手には数通の電報と、一冊の分厚い要望書を握りしめていた。
「シュミット! 休憩のところ悪いが、次から次へと客人がうるさくてな。……第12師団の偵察隊から、進軍路の意見が欲しいと泣きつかれている。それと、国防軍の補給部隊が『最も安全な橋』を教えてくれと言ってきているぞ。全く、貴様は引っ張りだこだ!」
プラッツは、俺を「便利な予言機械」か何かのように高らかに呼びつけた。
広間の隅で、俺を女神のように崇めていた連中の目が、少しずつ、何かもっとおぞましい「化け物」を見る目に変わっていくのを、俺は肌に張り付く冷たい汗と共に感じていた。
死を訳し、生を編む。
安らぎであるはずの休息時間は、俺の「知識」という名の毒を切り売りする、新たな取引の場へと変貌しつつあった。
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