第14話 戦場サロンの寵児
白樺の森を焼き尽くした黒煙が地平線の彼方に溶け去る頃、部隊はウクライナの古都の端に佇む、壮麗な石造りの豪邸へと滑り込んだ。
そこは、師団司令部という名の「異界」だった。
重厚な扉を開けた瞬間、鼻腔を突いたのは、前線の泥と死臭ではない。磨き上げられた大理石が放つひんやりとした気配、古びた書籍の紙の匂い、そして、それらを覆い隠すように甘く漂う蜜蝋と、上質なブランデーの芳香だった。
「……いいか、シュミット。余計なことは喋るな。だが、奴らを退屈させるなよ」
プラッツ少佐は、埃を払ったばかりの制服の襟を執拗に正しながら、これまでにない真剣な、どこか浮き足立った声で俺に囁いた。
彼の目には、もはや部下を労う色などない。そこにあるのは、自らの栄進を決定づける「稀少な剥製」を自慢しに行く蒐集家(コレクター)の、ぎらついた欲望だけだ。
サロンの奥へと進むと、シャンパングラスが触れ合う澄んだ音が、微かなピアノの旋律に混じって響いていた。
戦場を忘れたかのような優雅さ。だが、そこに集う将校たちの瞳は、硝煙の中で見るそれよりも鋭く、飢えていた。
「閣下、お連れいたしました。例の、鳥の声だけで『怪物』を泥に沈め、砲兵陣地を暴き出した、私の奇跡の通訳官です」
プラッツが、一際大きな肩章を付けた男に歩み寄る。
視線が一斉に俺に突き刺さった。好奇、疑念、そして退屈な日常に現れた新しい「玩具」を値踏みするような、冷ややかな愛玩の光。
その輪の中心にいたのは、眼鏡の奥に氷のような理性を湛えた、師団参謀のフォン・ベーア大佐だった。彼は俺を頭の先からブーツの先まで、まるで競走馬の筋付きを見るように検分し、唇の端をわずかに歪めた。
「シュミット少尉。君の武勇伝は、無線を通じてベルリンの酒場より早く、ここへ届いているよ」
大佐の声は、シルクのように滑らかで、同時に首筋に当たる剃刀のように冷たかった。
「……どうかな。君のその『予知』によれば、我々の進撃を阻む次の障害は何だね? 次に鳴く鳥は、どこにいる?」
試すような静寂がサロンを支配し、グラスの中の泡が弾ける音さえも不自然に大きく聞こえた。
俺の脳裏には、史実の進軍ルートと、この数日後に発生する「予期せぬソ連軍の反撃」の凄惨な記録が、血文字のように浮かんでいた。
だが、ここでは戦術を語るだけでは足りない。彼らが求めているのは「予言」という名の娯楽であり、自分たちの勝利を約束する「神託」なのだ。
「……大佐。この先のドニエプル河の蛇行地点、そこにある古い穀物サイロにご注目ください。そこは単なる監視所ではありません」
俺は、シャンパンの泡のように軽い口調で、だが心臓を射抜くような確信を込めて言葉を投げ込んだ。
「そこは、我々が橋を渡る瞬間に、歴史という名の牙が剥かれる場所です。……鳥ではなく、死神が羽ばたこうとしていますよ」
サロンの空気が、一瞬で凍りついた。
将校たちの目が、面白半分のものから、獲物を狙う肉食獣のそれに変わる。
死を訳し、生を編む。
きらびやかなシャンデリアの下、俺は気づいていた。
ここにいる誰もが、俺の「言葉」を求めている。だが、それは俺という人間を信じているからではない。自分たちの欲望という名の怪物を満足させるための、新鮮な「餌」を欲しているだけなのだ。
グラスを傾ける俺の視線の端で、プラッツが満足げに、そして誇らしげに顎を引いている。
俺は、新たな戦場に立っていた。
弾丸は飛ばないが、一言でも踏み外せば、この豪華な絨毯はたちまち俺の血で染まることになるだろう。
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