第11話 森の沈黙

ウクライナの午後の陽光は、暴力的なまでの白さで平原を焼き、進軍する車列が巻き上げる細かな砂埃が、喉の奥をザラつかせた。

 ホルヒ830の助手席で、プラッツ少佐は汗の浮いた額を拭いもせず、膝の上の軍用地図を苛立たしげに指先で叩いた。


「予定より三時間遅れている。この先の『緑の回廊』――あの白樺の森を突っ切るぞ。そうすれば日没前には町に滑り込める。……シュミット、異論はないな?」

 

プラッツが指し示したその場所を視界に捉えた瞬間、俺の心臓は不自然な拍動を刻んだ。

 脳内の記憶から、冷徹な活字が浮かび上がる。

 ――一九四一年七月、第4a特務部隊分遣隊、タルノポリ東方の森林地帯にてソ連軍砲兵連隊の待ち伏せに遭遇。百二十二ミリ榴弾砲の集中射撃により車両の八割を喪失、生存者僅少。


(……あそこだ。史実でこの部隊が『蒸発』した場所は、あの森だ)

「少佐、あの森へ入るのは自殺行為です。四キロ北の湿地沿いへ迂回すべきです」

 

俺の声は、走行するエンジンの重低音を切り裂いて響いた。

 プラッツは、信じられないものを見るような目で俺を振り返った。その瞳には、先ほどまで俺の「有能さ」に向けていた好意的な色は微塵もなく、剥き出しの上官としての不快感が兆している。


「……何と言った、シュミット。偵察機(シュトルヒ)の報告では、あの森に敵影はない。迂回すればさらに半日を無駄にする。理由を言え。納得のいく、論理的な理由をな」

 

理由。そんなもの、未来の戦史に書いてあったとは言えない。

 俺は双眼鏡を手に取り、遠く揺れる深い緑の境界線を睨みつけた。

 森は、あまりにも静かだった。風にそよぐ葉の音以外、生命の気配が一切絶たれている。


「――鳥が鳴いていないからです」

 

俺は、喉の奥から絞り出すように嘘を吐いた。

「見てください。あの規模の森なら、この時間、本来なら無数の鳥が騒いでいるはずだ。それが一羽も飛ばない。……あの中には、鳥たちが逃げ出すほどの『不自然な質量』が潜んでいる。十門以上の重砲、あるいは一個大隊規模の歩兵を隠すには、あの白樺の密度は格好の目隠しです」

「鳥だと?」

 プラッツが、乾いた喉で短く笑った。

「貴様、戦車を一両泥沼に沈めたぐらいで、自分を予言者か何かに勘違いしているんじゃないか? 我々には時間がない。命令だ、進め」


「死ぬための時間を急ぐ必要はありません!」

 

俺の絶叫に近い叫びが、車内に響き渡った。

 プラッツの顔が怒りで朱に染まる。彼は腰のホルスターに手をかけ、ルガーのグリップを握り締めた。


「シュミット少尉。貴様がどれほど有能だろうと、抗命は死罪だ。その口を閉じるか、ここで射殺されるか選べ」

 

周囲の兵士たちが、固唾を呑んで俺たちの争いを見守っている。エンジンのアイドリング音だけが、不気味に響く。

 俺は、プラッツの怒りに燃える瞳を真っ向から見据え返した。

 ここで俺が折れれば、数時間後、この部隊はバラバラの肉塊となってウクライナの肥やしになる。

 

死を訳し、生を編む。

 

俺の首筋に突きつけられているのは、プラッツの銃口ではない。避けることのできない「歴史」という名の巨大な刃だ。

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