第10話 鋼鉄の査察官

湿原の黒泥に深く沈み込んだ「怪物」の周囲には、いつの間にか国防軍の重レッカー車と、数台の偵察用サイドカーが集まっていた。

 三・七センチ砲しか持たない我々アインザッツコマンドにとって、このKV-1は手に余る獲物だったが、進撃を続ける装甲部隊にとっては、喉から手が出るほど欲しい「最新の標本」だ。

 立ち上る泥の臭いと、重油の混じった湿った風。その中心で、俺は泥まみれの軍服を着た一人の若い戦車将校に呼び止められていた。


「……信じられん。こいつを、手榴弾一つで黙らせたというのは貴様か?」

 

彼の襟章には、国防軍戦車兵の象徴である髑髏(トッテンコップフ)が鈍く光っている。彼は、SD(親衛隊保安部)の制服を着た俺を、まるで戦場の瓦礫の中から見つけた未知の精密機械でも見るような目で見つめていた。


「運が良かっただけですよ。……ですが中尉、そのKVを吊り上げるなら、右の履帯のテンショナーを先に外した方がいい。そうしないと、湿地の粘土にギアを食いちぎられますよ」

 戦車将校――後にエリートとして名を馳せることになるハンス・フォン・ルックは、一瞬呆気に取られたように目を見開いた。


「……なぜ親衛隊の翻訳官が、ソ連軍の新型重戦車の駆動系にそんなに詳しいんだ?」


「翻訳官になる前は、メカを愛する一人のマニアでしたから。あいつの急所は、図面が頭に焼き付いていますよ」

 俺が淡々と答えると、ルックは短く笑い、俺に泥だらけの手を差し出してきた。


「気に入った。私は第11装甲連隊のハンスだ。……シュミット少尉と言ったか。戦後、ベルリンの酒場で、この泥遊びの続きを聞かせてくれ」

 

その光景を、少し離れた場所からプラッツ少佐が眺めていた。彼はホルヒの車体に寄りかかり、新しい煙草に火をつけながら、独り言のように呟いた。


「おい、シュミット……。貴様、化けの皮の下に何を隠している?」

 

プラッツの声には、いつもの傲慢な響きはなかった。代わりにあったのは、自分の理解を超えた存在に対する、静かな畏怖と強烈な好奇心だ。


「最初は、言葉が少しばかり達者なだけの小生意気な少尉だと思っていた。だが、貴様が連れてくる捕虜の選別(※第2話のムジチェンコを事務屋とした件)と言い、この無敵の戦車を泥沼に沈めた手際と言い……どうも筋書きができすぎている」

 プラッツは煙を吐き出し、細めた目で、ルック中尉と親しげに話す俺を凝視した。


「国防軍のプライドの高い連中まで、こうも簡単に手懐ける。貴様を見ていると、時折、この戦争という舞台を一段高い特等席から眺めているような気分になる。……不気味だが、これほど面白い駒は他にいない」

 プラッツが、喉の奥で押し殺したように笑う。

 その笑い声の裏には、「この男を使いこなせば、どこまで行けるか」という野心と、自分すらも利用されるのではないかという微かな戦慄が同居していた。

 

死を訳し、生を編む。

 

周囲の評価が「有能な翻訳官」から「底知れない予言者」へと変わりつつあることを、俺は肌で感じていた。

 

俺が次に編むべきは、自分の首筋にかけられた「疑惑」という名の縄を、いかにして「信頼」という名の鎖に変えるかだ。

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