第9話 鋼鉄の残響

湿原に、不気味なほどの静寂が戻ってきた。

 風が吹くたび、泥を焼き焦がしたような生臭さと、熱せられた鉄の匂いが鼻腔を突く。

 

沈黙を守っていたKV-1の頭上で、不意に、乾いた金属音が響いた。重厚なハッチのロックが外れる、重苦しい拒絶が解かれた音。それは、密室に閉じ込められた獣たちが、ついに自らの敗北を認めた合図だった。

 ――キィ、と、錆びた蝶番が悲鳴を上げるような音を立てて、ハッチがゆっくりと持ち上がる。

 

中から溢れ出したのは、吐き気を催すほどの熱気と、煤にまみれた濃厚なディーゼル油の臭気だった。

 這い出してきたのは、煤で顔を黒く汚れ、脂汗を滴らせた三人の若者だった。彼らは眩しそうに目を細め、幾重にも銃を構えたドイツ兵たちに包囲されている現実に直面すると、糸が切れた人形のように、力なく両手を頭の後ろへ回した。


「……殺さないでくれ。水、水を……」

 

一人が、喉の奥でひび割れた粘土のようなロシア語を漏らした。

 俺は一歩前へ出た。隣でプラッツがルガーの銃口を向け直すのを、視線だけで制止する。俺は腰の軍用水筒を外し、泥の上にうずくまる戦車兵の足元へ投げ与えた。


「飲め。……お前たちの戦争は、たった今、この泥の中で終わった」

 

俺の言葉を聞き、若者は幽霊でも見たような顔で俺を見上げた。

 この鋼鉄の密室で、彼らがどれほどの恐怖を味わったのか、俺には痛いほど解る。外からの砲弾は防げても、俺が投げ込んだ「世界から見捨てられた」という言葉の毒は、彼らの精神の根幹を確実に腐食させていた。

 

俺は、戦車の開いたハッチの縁に置かれていた、一冊の革張りの鞄を手に取った。

 中を検めると、油のついた地図の断片と、何枚かの野戦電報。そして、まだインクの匂いが残る、この「怪物」の最新の整備記録――それも、レニングラードの工場から直送された機密書類だ。


「少佐、収穫です。この戦車の稼働データ、そして不調箇所の詳細な記録。……これさえあれば、ベルリンの技術局は、KV-1の『不死身の神話』を明日にも解体できるでしょう」

 プラッツは、俺が差し出した鞄を奪い取るように受け取ると、中身を読みもせずに、歪んだ笑みを深く刻んだ。


「手柄だな、シュミット。戦車を一両丸ごと仕留め、その心臓の図面まで手に入れた。お前の言う通り、大砲(アハト・アハト)を待つまでもなかった」

 俺は返事をせず、泥沼に沈んだままの巨大な鉄の塊を見つめていた。

 

本来の歴史では、ここで数え切れないほどのドイツ兵が命を落とし、この戦車は最後まで狂気のような抵抗を続けて、自爆して果てたはずだった。俺という異分子が、その凄惨な結末を「降伏」という、あまりにも静かな形に書き換えてしまったのだ。


「……シュミット少尉、お前は本当に、得体の知れない男だ」

 

プラッツが、冷たい好奇心のこもった目で俺を見た。


「ただの翻訳官にしては、戦車(鉄)を殺す術を知りすぎている」

「私は、無駄な弾丸と無駄な時間を嫌っているだけですよ、少佐。……さて、車列を戻しましょう。道は開けました」

 

俺は再び、R12のサドルに跨り、水平対向エンジンの鼓動を呼び覚ました。

 

死を訳し、生を編む。

 

俺が編み上げた新たな歴史の糸が、独ソ戦という巨大な織物の中で、静かに、だが決して消えない色で混じり始めていた。

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