第8話 鋼鉄の棺と血の対価
湿原に、不気味なほどの静寂が戻ってきた。
三両のKV-1は、黒い泥を派手に噴き上げたまま、野ざらしの巨大な墓標のように沈み込んでいる。だが、その砲塔は依然として獲物を探すように、微かな油圧音を立てて蠢(うごめ)いていた。怪物は、手足を奪われてなお、その牙だけは研ぎ澄まされている。
「……シュミット、あいつら、まだ死んじゃいないぞ」
丘の影から這い出してきたプラッツ少佐が、双眼鏡の接眼レンズに眉間を押し付けたまま、苦り切った声を漏らした。
挑発に乗りはしたが、連中は鋼鉄の檻の中に立て籠もっている。三・七センチ対戦車砲で外側からいくら叩いたところで、中の乗員からすれば、雨粒がトタン屋根を叩く程度の音にしか聞こえないだろう。
「分かっています、少佐。あいつらは、内側から鍵をかけた最強の金庫に閉じこもったつもりなんです」
俺はR12のシートから降り、泥のついた革手袋を脱ぎ捨てた。
多言語の耳が、湿った風に乗って漏れてくる「鉄の箱」の中の音を拾う。必死に無線機を叩くキーの音。そして、鉄板越しでも伝わる、酸欠に近い荒い呼吸の塊。
「ですが、あの金庫の中は、今頃サウナ状態のはずです。ディーゼルの排熱と、逃げ場のない熱気。……それに、連中は気づき始めている。自分たちが、味方の撤退ルートからも、司令部の関心からも取り残されたことに」
俺は一挺の信号銃を空へ向け、引き金を引いた。
乾いた音とともに、赤い光線が午後の澄んだ空を切り裂く。それは降伏を促す合図ではなく、俺の中に眠る「冷徹な歴史の記憶」を呼び覚ますための、死神のノックだ。
「少佐、工兵を呼んでください。爆薬で派手に吹き飛ばす必要はありません。……あいつらのエンジンの排気口を、湿地の泥で塞いでやればいい」
「……窒息させるというのか?」
「ええ。怪物も呼吸ができなければ、ただの重い鉄屑です」
俺は再び、泥濘(でいねい)の中を歩き出した。
ハッチを閉ざしたKV-1の巨体の傍らに立ち、多言語の能力を喉に全開にする。今度は「罵倒」ではない。もっと根源的な恐怖――**「世界から見捨てられた者の孤独」**を、ロシア語で静かに語りかけるためだ。
「聞こえるか、鉄の中にいる亡霊ども。お前たちの軍団本部は、さっき無線の周波数を切り替えたぞ。お前たちの名前は、もう『戦死者名簿』に書き込まれた。誰も助けには来ない。お前たちはもう、存在しない人間なんだ」
返答はない。
だが、あんなに執拗に回っていた砲塔の回転が、ピタリと止まった。
「ハッチを開けろ。今ならまだ、俺の隣にいる少佐を説得して、お前たちを『一人の兵士』として扱わせてやる。……それとも、このまま黒い泥の中で、自分たちの排気ガスを吸いながら眠るか? 歴史にお前たちの名前は残らない。ただ、この湿地の肥やしになるだけだ」
鋼鉄の肌を、拳で固く叩く。冷たく重い金属音が、湿原の風の中に虚しく響き渡った。
死を訳し、生を編む。
鋼鉄の檻を抉り開けるのは、爆薬ではない。俺の口から溢れ出す、氷のように冷徹な「言葉」というナイフだ。
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