第7話 泥濘の挑発
水平対向二気筒エンジンの野太い鼓動が、ステップの静寂を暴力的に掻き回していく。
ハンドルを握る俺の指先には、泥を噛むたびにR12の激しい振動が伝わり、鼻腔には焼けたオイルと、湿原特有の腐りかけた葦の匂いが混じり合って突き刺さった。
視界の先。見渡す限りの緑の海が、不自然に揺らめいた。
そこには、泥を塗りたくった鋼鉄の絶壁――KV-1が、三両。
陽炎の向こうに鎮座するその質量は、ただそこに在るだけで周囲の空気を歪ませるほどの圧を放っている。
(……一九四一年型の『怪物』。今のドイツ軍じゃ、八十八ミリ砲(アハト・アハト)を持ち出さない限り、あれの皮は剥げない)
俺は敵の七十六ミリ砲の射程に片足を突っ込んだ地点で、ブレーキを引き絞った。
バイクを捨て、泥濘にブーツを沈めて立ち上がる。
俺は恐怖を、冷徹な計算で塗りつぶした。喉の奥、多言語の能力が「最悪の言葉」を選び取る。
「――聞こえているか、湿地の臆病者ども! その自慢の鉄の箱は、お前たちの棺桶としては少々立派すぎるんじゃないか!」
俺の放ったロシア語は、彼らが故郷のコルホーズで浴びせられる罵倒よりも鋭く、毒々しく湿原を走った。
「戦車兵を気取っているようだが、お前たちはただの『荷運び』だ。スターリンに捨てられ、泥の中で震えるしか能がない案山子(かかし)め。やれるものなら動いてみろ。それとも、あまりの重さに、その腹が泥に吸い付いて離れないのか?」
静寂が、一瞬だけ世界を支配した。
やがて、先頭の一両が、まるで巨大な獣が目を覚ますかのように、真っ黒なディーゼルの排気煙を空へ噴き上げた。
「……掛かった」
重厚な金属音が平原に響き渡る。
ハッチから身を乗り出した戦車長が、顔を真っ赤にして叫んでいるのが見えた。多言語の耳が、その怒声を鮮明に拾う。
『あの小蠅を磨り潰せ! 地獄まで追い詰めてやる!』
猛然と動き出す四十五トンの怪物。地響きが、逃げる俺の背中を、地鳴りとなって追いかけてくる。
俺はバイクに飛び乗り、スロットルを全開にした。
(来い。もっと深く、もっと足元の柔らかい方へ。歴史の教える『底なし沼』は、すぐそこだ)
振り返れば、KV-1の太い履帯がウクライナの黒泥を派手に跳ね上げ、俺との距離を詰めてくる。
だが、その速度が、ある地点を境に急激に落ちた。
金属が悲鳴を上げるような、凄まじい「異音」が響く。
――ズ、ズズ……。
先頭のKV-1が、まるで巨大な蟻地獄に足を踏み入れたように、右側の履帯を深く泥の中へ没していた。
焦った操縦手が無理に出力を上げたのだろう。自重という名の呪いが、奴らをさらに深く、黒い泥の深淵へと引きずり込んでいく。
「な、なんだ、これは! 抜けん! 全員、逆転だ!」
無駄だ。
一度「腹」を打った怪物は、もう自力では動けない。
後続の二両も、先頭を避けようとして急旋回し、同じく柔らかな地盤にその巨躯を預けてしまった。
俺はバイクを止め、泥の中でもがく鋼鉄の残骸を冷ややかに見つめた。
多言語の耳は、ハッチの中で泣き言を漏らすロシア兵たちの絶望を、余さず聞き取っている。
「……少佐、獲物がかかりましたよ。エンジン音だけの『案山子』です」
俺は無線機を手に取り、丘の影で息を潜めていたプラッツに告げた。
死を訳し、生を編む。
歴史の怪物を狩るのに、火薬(パウダー)も鉄(アイアン)も必要なかった。ただ、「言葉」という楔があれば足りたのだ。
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