第6話 湿原の怪物
ウクライナの夏は、粘りつくような熱気とともに牙を剥く。
地平線を揺らす陽炎の向こうから、じっとりと湿った風が吹き抜けていた。十キロ先にあるという湿地帯。そこには、現在のドイツ軍兵士たちが「幽霊」と呼んで恐れる、文字通りの怪物が潜んでいる。
「シュミット、本当なんだな。あそこに三両も『KV』がいるというのは」
ホルヒ830の助手席で、プラッツ少佐が顔を歪めた。その声には、先ほどまでの傲慢さは影を潜め、隠しきれない焦燥が混じっている。
一九四一年夏。ドイツ軍にとって、ソ連の重戦車KV-1は、遭遇した瞬間に絶望を突きつけられる「歩く要塞」だった。三・七センチ対戦車砲など、奴らの厚い皮を叩くノックの音にすらならない。
「間違いありません。ですが、少佐。怪物は、そのあまりの重さゆえに、自らの足元に殺されるものです」
俺は広げられた軍用地図の一点、等高線が不自然に歪んだ湿地を指差し、歴史の記憶を呼び起こした。
(……史実では、この付近でプラッツ部隊はKVの伏撃を受け、壊滅的な損害を出したはずだ。だが、その公式記録の片隅に『地盤の脆さ』についての恨み節があったのを覚えている)
「敵は湿地を背に陣取り、我々を誘い込もうとしています。正面から挑めば磨り潰されるだけだ。……ですが、あいつらの自重は四十五トンを超えている。この季節のウクライナの泥を、奴らは甘く見ている」
俺は運転兵に命じ、車列を丘の影に停めさせた。
「少佐、ここからは『言葉』ではなく『重力』の出番です。あいつらを湿地の最深部まで引きずり出し、泥沼にその足を掬わせる。身動きの取れない鉄の箱になれば、あとは工兵の爆薬で蓋を閉めるだけだ」
プラッツは、俺が何を企んでいるのかを測るように、細めた目で俺を凝視した。
「……貴様、あの怪物を泥遊びに誘うつもりか?」
「ええ。ドイツ軍の機動力(ブリッツクリーク)という奴を、連中に骨身に染み込ませてやりましょう」
俺は近くにいたオートバイ兵のR12を一台借り受け、自らキックペダルを踏み抜いた。
腹に響く水平対向エンジンの鼓動。多言語の能力が、風に混じる微かな排気音の方向を鋭く探り当てる。湿った葦の匂いの中に、重厚なディーゼル油の匂いが混じり始めていた。
「少佐、車列はここで待機。私が奴らを連れてきます。……連中のプライドを、ロシア語で徹底的に汚してやればいいだけですから」
俺はスロットルを回し、サイドカーを軽快に跳ね上げながら、一人湿原の深淵へと突っ込んでいった。
死を訳し、生を編む。
今度は、自らの命を極上の餌にして、歴史の怪物を狩り取る番だ。
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