第5話 鉄の檻と沈黙の翻訳

T-34の残骸から溢れ出した重油が、ウクライナの黒土をどろりと汚しながら、パチパチと爆ぜる音を立てていた。焦げたゴムと肉の混じった、鼻を突く悪臭が漂う。

 

俺はその黒煙を背に、泥の上に座らされた若い戦車兵と向き合っていた。


「……名前を言え。言わなければ、あそこの少佐が望む通りの結果になるぞ」

 

俺のロシア語は、彼が故郷のヴォルガ近郊で聞き慣れたはずの、穏やかでいて逃げ場のない響きを帯びさせていた。

 ソ連兵は唇を血が滲むほど噛み、俺を睨みつける。その瞳には、恐怖を塗りつぶそうとする、脆い石膏のような勇気が宿っていた。


「ファシストに喋る舌など持ち合わせていない! 殺せ、英雄として死んでやる!」

 傍らでその言葉を聴いていたプラッツが、苛立たしげにルガーの安全装置を外した。金属質の冷たい音が、静まり返った平原に響く。


「シュミット、無駄だ。こいつらは洗脳されている。時間をかけるだけ弾丸の無駄だ。……林へ連れて行け」

 俺は片手を軽く挙げて、プラッツの殺気を制した。


「少佐、少々お待ちを。彼は英雄になりたいと言っていますが……本物の英雄というのは、家族を道連れにはしないものです」

 俺は再び捕虜に顔を近づけた。今度は、彼にしか聞こえない低い声で、イディッシュ語の単語をいくつか混ぜながら囁いた。


「お前の母親は、サラと言ったな。キエフの仕立屋だ。……お前がここで無駄死にすれば、彼女がどうなるか分かっているはずだ。この先、キエフがどのような『浄化』を受けるかもな」

 捕虜の顔から、一気に血の気が引いた。目を見開き、喉がヒクリと震える。

 

俺の手元に名簿などない。だが、この時期のソ連戦車兵の出身地の傾向や、ユダヤ系兵士が置かれた危うい立場、そして何より数ヶ月後のキエフで起きる「バビ・ヤール」の惨劇を、俺は未来の知識として鮮明に記憶していた。


「な、なぜ……それを……」

「俺はすべてを知っているんだ、同志(タヴァーリシ)。お前の軍団がどの森に隠れ、次の反撃をいつに設定しているかもな。……俺が欲しいのは、お前の命じゃない。お前が吐く情報の『裏付け』だ。それさえあれば、お前の母親は『有用な労働力』として、俺が保護を約束してやれる」

 

真っ赤な嘘だ。

 

一介のSD少尉である俺に、組織の狂気を止める権限などない。だが、俺の完璧なロシア語と、未来を予言するような言葉の重みに、若き兵士の精神的支柱は音を立てて崩れ去った。


「……第、四機械化軍団の……生き残りは、十キロ先の湿地帯に……。KV-1が、三両残っている……」

 

喉の奥から絞り出すような、裏切りの告白。

 俺は立ち上がり、背後のプラッツに完璧なドイツ語で報告した。


「少佐、収穫です。十キロ先の湿地に『怪物(KV)』が三両潜んでいます。……それと、この先の補給路にある燃料庫の隠し場所も。この男、命惜しさに面白いように喋りますよ」

 

プラッツは、信じられないというように俺と捕虜を交互に見た。その眼差しには、隠しきれない戦慄が混じっている。


「……わずか数分で、あの狂信者を割ったというのか。シュミット、お前の舌は、我が軍の八十八ミリ砲よりも強力な兵器だな」

 

プラッツの目に、確かな「畏怖」が刻まれた瞬間だった。

 俺は泥だらけの捕虜を見下ろし、心の中で冷徹に計算を弾く。

 

こうして俺は、ナチスの闇の中で「不可欠な目」となり、同時に戦後の自分を救うための「貸し」を、歴史の裏側に一つずつ積み上げていく。

 

死を訳し、生を編む。

 

その歩みは、泥濘に沈む車輪のように、もう誰にも止められなかった。

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